午後からはナイツブリッジ駅で降りて、ハロッズデパートに連れて行ってもらった。

「もうここまでくるとダンジョンだ……」

 基本的にはナショナルギャラリーと同じ、四つの入り口で四方の部屋とつながっている構成だったけど、今度はそれが何階層もある。一人では無事に出てこられる保証すらないと思う。

「あ、漫画だ」

 上の方の階層にある本屋さんで日本の漫画をみつけた。一つの棚一面にあった。

「リチャードは漫画読んだことある?」

「最近、『君に届け』を読んだよ」

「……君の幅の広さには毎度感心する」

「そう? 爽子ちゃんキュートじゃない」

 日本の漫画の棚は子どもが立ち止まって見上げていたりした。

 高級デパートにも漫画が置いてあるのだから、日本のサブカルチャーは順調に海外に渡っているらしい。

 デパートの中にはあらゆるものがあった。家具や電化製品、化粧品にバッグ、もちろんお土産物は蟻も漏らさぬ構えだった。

「かわいいよう……」

 私は白いテディベアを抱っこしながら、そのつぶらな瞳とみつめあっていた。

「いいでしょー。買ってあげよっか?」

「いや、私が……しかし」

 その瞳が私を買ってと言っている気がする。だけどちょっと待て、と私は自室の様子を思い出す。

「だめだ。私の家にはもうたくさんぬいぐるみがいるんだ」

 既に置き場がほとんどなくなってきている。みつめあう時間すらあまりない。

「名残惜しいけど、もっといいお家に買われていっておくれ」

 泣く泣くテディベアに別れを告げて、私はまたぶらぶら歩きを再開した。

 地下のギフトコーナーにも、それこそあらゆるものがあった。

 何を見ても眩しい。ロンドンマップのトートバック、ハロッズキティちゃん、クッキーの缶やエコバックの模様までかわいかった。

「これに硬貨を入れると、潰して記念メダル作ってくれるよ」

「硬貨つぶしていいの? 捕まらない?」

「大丈夫」

 私は1ポンドと銅貨を一枚入れてみる。

 ハンドルをけっこう力をこめてぐるぐる回していると、やがてころんとメダルが落ちてくる。

「きれい……だけど」

 ハロッズのマークが浮かび上がった記念メダルに、私は呟く。

「女王陛下の顔が透けて見えるのがシュール」

「いいじゃん。女王陛下の顔に落書きできる機会なんてあんまりないよ」

 ぷっと吹き出して、それからもいろんなものを見て回った。

 午後はあっという間に過ぎて、夕方になった。

「疲れた?」

「うん。大体見て回ったし」

 免税コーナーの辺りで座っていると、リチャードが少し考えて頷く。

「じゃあお茶でも飲みに行く?」

「ごめん。買い物にばっかり付きあわせて」

「いいよー。僕もけっこうぶらぶらするの好きだし」

 見るとリチャードは結構平気そうだった。デパートの上から下まで歩いたのに、全く疲れた様子が見えない。細身なのに体力はあるらしい。

 私たちはハロッズの上階でアフタヌーンティなるものを頂くことにした。

「ここは……高いのでは」

「今日の夕食も兼ねると思えばそれほどでもないよ」

「紅茶なのに?」

「食べ物もどーんとついてきます。甘いものももちろん」

「甘いもの……」

 心が揺れた私の目の前には、憧れのティールームが広がっている。レースのカーテン、グランドピアノ、白いテーブルが並ぶ。

「……行ってみよう」

 私の完敗だった。

 明るいベランダで座ってしばらくすると、ウェイトレスさんが注文を取りに来た。

 注文してさらに少し待つと紅茶が出て来て、そして目の前に置かれたものに目を見開く。

「こっ、これは……っ」

 それはお皿が三段になっていた。一番下には全部違う種類のサンドイッチが三つほど、真ん中にはスコーンとジャム、そして頂点の皿を色とりどりのデザートが飾る。

 きらきらと輝く三重奏を思わず何往復も上から下まで眺める私を、リチャードが面白そうに見ている。

「ま、まずはサンドイッチから」

 私は激しく動揺しながら下のサンドイッチを取って食べる。ふわりとしたパンと癖のないサーモンが溶け合うように重なっていた。

 これは期待できそうだ、と私は心を熱くする。

「リチャード。お願いがあります」

「はい、何でしょう」

「全部食べられるか心配なので、マナー違反かもしれませんが好きなものからランダムに食べます。よろしいでしょうか」

 なぜか改まって言う私に、リチャードは目で笑いながらきりっと返す。

「どうぞ。お嬢さんのお心のままに」

 許しが出たので、私はありがたく食事を頂くことにした。

 リチャードがやるのを真似てスコーンを半分に切って、クリームを乗せて食べる。みっちりと中の詰まったスコーンは噛むほどにおいしかった。

 上のデザートもどんどん取ることにする。チョコレートケーキやタルト、どれも甘くて嬉しい味がした。

 紅茶が減るとウェイトレスのお姉さんが注ぎに来てくれる。

 なんという非日常、と思いながら、私はぱくぱくと食べる。

「リチャード。君のモテる秘訣がわかった気がするよ」

「えー、どこどこ? 聞きたーい」

「人を楽しませる能力が高いんだ」

 高いものを買ってあげるだけなら、お金があればできる。綺麗なものを見せてあげるだけなら、知識があればできる。

 人を楽しませるには、相手を見極めることとそれに応えるだけの底力が要るのだろう。

「それは僕のことが好きということ?」

「君のことは元々好きだよ」

 何気なく言ったら、リチャードは少しだけ止まる。

「……なんて言った?」

「え?」

 簡単な日本語だ。既に流暢に日本語を操っているリチャードが聞き逃すとも思えない。

――あ、本当にリチャードからメール来てる。

 三年前の冬休みにリチャードが帰国してまもなく、私はメールボックスを開いて声を上げた。

――メアド教えてって言ってたけど、社交辞令だと思ってたのに。

――リチャードは社交辞令ではプライベートの情報を訊かないよ。

 自分も旅行から戻って来たデニスは本を読みながら、ぽつりと言った。

――……君らは、仲良くなると思ってたよ。

――え?

――君らは二人とも、honestだから。

 私はきょとんとして、オネスト、と呟いた。

 学校の授業で、それが真面目とか正直という意味だとは知っていた。

――リチャードって真面目かなぁ。

 子どもっぽい、妖精パックみたいな愉快な人だと思っていたから、私は首を傾げた。

――真面目なのはデニスじゃないの?

――僕は小ずるいところがある。

 デニスはついと私を見た。

――人のことを知るのは難しいからね。少しずつ、近付くしかない。

 私は半年以上一緒にいて、少しもデニスのことを理解できた気がしなかった。

――私にはわからないよ。

 私が言ったのはデニスのことだったけど、デニスはそれをリチャードのことだと受け取ったようだった。

――大丈夫。たぶん、リチャードは自分のことを教えてくれるよ。

 デニスは安心させるように、僅かに頷いた。

――ただそのためには、君が自分のことを教えなければね。正直に、偽りなく。

「でもイングランドの女の子たちは、ダーシー氏みたいな人が好きだって言うんだよぉ」

 いつの間にか話題が移っていたようで、私ははっとして慌てて会話に戻る。

「ダーシー氏って、『高慢と偏見』の?」

「そう。高収入、高身長、ついでに上から目線の冷血漢ダーシー氏」

「何もかも高い人だよね」

 私も本を読んだことがあったので、苦笑しながら言う。

「やっぱりクールさは魅力だよ」

「えー、でも現代人であの冷たさじゃやっていけないと思うんですけどー」

「ちょっと欠点があった方がかっこよく見える」

 君だって子どもっぽいところがあるから愛嬌があっていいんだよ、とは言わずに、私は指を立てる。

「ヒ○ー・グラントだって、ちょっと抜けてるところがいいんじゃないか」

「智子さんは僕よりヒューの方がかっこいいっていうのっ?」

 リチャードが勢い込んで言うので、私は首を傾げる。

「俳優さんとは比較できるものじゃないと思うけど。いや、私は素直にかっこいいと思うよ、彼」

「ひどいー。三年間文通したのに僕を捨てるなんて」

「その文通の中で私がジョニーのファンであることくらい知ってるじゃない」

「イングランド人でしかもオックスフォードの先輩に負けるのは嫌なの」

 よく基準がわからないなぁ、と思いながら、私は笑っていた。

 リチャードとはいつまでも話していたくなる。こんなに楽しい人は他に知らない。

 午後の時間は、飛ぶように過ぎていった。