朝食を食べて身支度をし、八時にホテルを出発した。

 地下鉄に乗ってウォータールー駅、そこからソールズベリーに向かう。

 ソールズベリーも綺麗な街並みで壮麗な大聖堂があるらしい。だけど、まずはストーンヘンジへ行きたかった。

――どこへ行くの、デニス?

 ガタガタとバスに揺られている間、私はうたたねをしていた。

――「……。」

 デニスは日本の滞在中、少しでも時間があると旅行をしていた。私も行ったことがないような日本の奥地へ向かっては帰って来た。

 デニスの答えを思い出す前に、バスは目的地に到着した。

 そこは電気も何もないぽつんとした場所だった。地平線まで見えそうな、平坦な原っぱが広がっていた。

 その中で、視界の隅っこに石の塊がちらりと映る。

「……デニスらしいや」

 本当に無駄な装飾とかそういうものが嫌いなんだなと、私は苦笑する。

 天気は薄曇りで、雨までは降らなさそうだ。

 バス停から石の群れの方へ、私はぼちぼちと向かう。

――ストーンヘンジを登場させる有名な文学として、トーマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』がある。

 デニスはその本を貸してくれたのだが、私はそれを最後まで読むことができずに途中で返した。

 あまりに救いのない話だったからだ。強姦、貧困、離れて行く恋人、主人公のテスの行き先には、いつも暗い運命しかなかった。

――これを好きになる人っているのかな。

 そう思って首を傾げたくらい、絶望的なストーリー展開だった。

――どうしてもというなら、ラストシーンだけ読んでごらん。

――嫌だよ。これ、どう考えてもハッピーエンドじゃないもん。

 当時高校生、まだまだ夢見るお年頃だった私には、とても読めるものじゃなかった。

――そうだね。なら仕方ない。

 デニスは本を勧めたものの、あっさりと引き上げた。

 彼はほとんど表情を動かさないから、私は彼が私に呆れたのかもしれないとがっかりした。

――私が子どもだからかな。良さが全然わからないんだ。

――どうだろう。わかる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

 デニスは下手に慰めも励ましもしない。傍目には冷淡と言ってもいいほどの態度で、丁寧だけど人と距離を置いた話し方をしたから、余計にその心がはかれなかった。

 彼の心は今もわからないけれど、デニスが亡くなった後に本自体は最後まで読んで、結末を知った。

 思っていた通り、結末はバッドエンドだった。殺人を犯し、逃避行の末にテスは処刑される。

 でも不思議なことに、高校生の時に読んでいた時ほどの絶望感はなかった。

 泥沼の末の終わりなのに、そこには僅かに光が差し込んでいるような気がした。

『何語のガイドが要る?』

『日本語で』

「いってらっしゃい」

 入場料金を払って入った先の音声ガイド引渡し所では、おじいさんが日本語でガイドを渡してくれた。

「ありがとう」

 私も日本語で返して、中に入った。

 トンネルを通って上ると、視界が開けた。

「あれがストーンヘンジ」

 二十メートルほど先に、その石群が姿を現していた。

 物語のテスは最後に、ストーンヘンジに辿り着く。

 読んだ時はなぜラストシーンをもっとロマンチックな場所にしないのだろうと思ったけど、今は少し気持ちがわかる。

 周囲に家々の姿はない。人も、生き物の気配すらしない。

 人生の先に何の希望も見出せなかったテスには、もうここに来るしかなかったのだろう。

 生きている世界には、テスの居場所はどこにもなかった。

 そんな悲しいことってないと思う。少し俯いて、私は立ち止まった。

――原初の世界。

 ふいに耳元でデニスの言葉が蘇る。

――僕の祖先がこの国に住む前から、あの遺跡は同じ場所にあったんだ。

 私はストーンヘンジの周りの小道を歩きながら、石群をみつめる。

――あそこに行くと、自分のルーツについて考えさせられる。

――ルーツ?

――起源。始まり。僕は自分がイングランド人だと思っているけれど。

 彼は常々イギリス人という言葉を否定していた。自分はイングランド人であって、ウェールズ人やアイルランド人とはルーツが違うのだと。

――僕の祖先はおそらく元々グレートブリテン島には住んでいなかったはずなんだ。彼らは大陸から渡って来た。

――そうなんだ。あのね、日本人の祖先も元は今の列島に住んでなかったらしいよ。

――そう聞いている。でも君らはこの列島こそ故郷だと思っているだろう?

 うん、と私が迷わず頷くと、デニスも頷いた。

――僕もグレートブリテン島が故郷だと思ってる。そう考えると、ルーツというのは、実は血筋より地縁の方に強く結び付いているのではないかという気がする。

 デニスの話すことは難しかったけど、私はじっとデニスをみつめながら聞いていた。

――だからなぜか懐かしいんだ、あの石群は。僕の祖先が作ったものでも、彼らが住んでいた頃にできたものでもないはずなのに。

 どうだろう、と私は考える。

 自分のルーツについて、私は意識したことはない。ただ父と母がいて、その前に祖父と祖母がいる。それくらいしか日常には登場しなくて、また私自身考えもしない。

 だけどもっとずっと昔に存在していた人や物を歴史で知っていて、それを見ると懐かしいと感じることがある。デニスの言いたかったことも、そういうことなのだろう。

 テスもイングランド人だった。だから彼女もここに来て懐かしかったのだろうか、とぼんやり考える。

 音声ガイドを耳に当てながら、石群の周りをぐるりと回る。

 どうやって作られたのか、何で出来ているのか、いつ頃のものなのか、そういったことを順番に細かく教えてくれる。

 一番気になったのは、どうして作られたのかという部分だった。

 それについては色々な説があるらしい。太陽崇拝の場所だとか、礼拝所だとか、天文台だとか、一致はしていないそうだ。

――ただ、天文に関する場所ではあったようだね。

 夏至の日には、ぴったり石の並べられた方角から太陽が昇るらしい。

「季節時計みたいなものだったのかな」

 何百年、何千年経っても、正確な時を刻むことができるように作ったのだろうか。

 たぶんこれだけ大掛かりなものだから、権力の誇示のためというのが大きな理由なのだろうけど、全く無意味なものを建てるとも思えない。

 風に吹かれて、石群は何もないところに立っている。

 昔は周りに何かあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。

 ただ何千年も昔から、石群はここに存在しているという事実だけが残っている。

 二時間くらいかけて周りを一周して、私は入り口に戻った。

 ちょうど昼だったので軽食を食べて、私は駐車場までやってくる。

「バスは……まあいいか」

 バスの時間を見ようとしたけれど、私は首を横に振った。

 ソールズベリまで歩いて行こう。道なりに進んで行けば、辿りつけないことはないだろう。

 そう思って、私は古代の石群の遺跡を後にした。