クルーザーに乗った場所までバスで戻ってくる時は、一階に乗車した。

「お腹すかない? 君、お菓子しか食べてないでしょ」

「いや、ちょっと朝食べ過ぎたかも。あんまりお腹空いてないんだ」

 途中でサンドイッチショップに入ったけど、私はその横にあるクッキーを食べることで精いっぱいだった。

 風が冷たくなってきていた。特に川の上の寒さは肌が凍るようで、私は早々に窓のある一階の席に降りた。

「あっちがウェストミンスター宮殿。今は国会議事堂として使われてるの」

「針を束ねたみたいだね」

 天に刺さるような無数の塔が立ち並ぶ、灰色のゴシック様式の建物だ。

「そしてあれがビッグベン。時計台ね」

 縦長の四角い建物の上に時計がついていた。巨大な文字盤に、二つの針が時を示している。

「デニスはあまりロンドンが好きじゃなかったけど、ここはわりと気に入ってたみたい」

「うん」

――ウェストミンスターの鐘の音は、一度聞いておくといいよ。

 確かデニスもそう言っていた。デニスがロンドンで好きだった、数少ない場所だったと思う。

 橋の上から時計台を一枚写真に撮って、私たちはウェストミンスター寺院の方に向かう。

 ここも人でごったがえしていた。露店や大道芸人がいる中を、バックパックの旅行客がひしめいている。

 そこに、道の真ん中で小さな花を持っている若い女性がいた。

「あれ?」

 私の方に気づいたかと思うと、花を持ってにこやかに歩いてくる。

 どういうことだろう、と首を傾げたら、後ろからぐいと引っ張られた。

「No」

 リチャードが厳しい顔で言い放って、私の肩を抱えるようにして歩いて行く。

 同じように花を持っている人が何人もいた。それを、リチャードは振り払うようにして通り過ぎる。

 交差点を渡って寺院の入り口近くまでくると、ようやくリチャードは私の肩から手を離した。

「あれが今ヨーロッパ中で大流行してる、花挿し詐欺」

「花挿し詐欺?」

「勝手に花を胸ポケットとかに挿してきて、高額な代金を請求してくる」

「……そんな詐欺があるの?」

 馬鹿げてる、と私は思わず眉を寄せる。

「現実にあるんだ。絶対挿させちゃ駄目だよ」

 にこにこしながら近付く人には悪意がある。今朝リチャードに言われた言葉を私は心の中で繰り返す。

 ロンドンでは笑ってはいけないのだろうか。そんなことすら考えた私に、リチャードは苦笑する。

「怖いね。嫌だよね。でも君もわかってると思うけど、ロンドンの人みんなが怖いわけじゃない。あくまで一部だ」

「うん」

 私は自分を奮い立たせるように頷いた。

 考えを切り替えようと首を横に振って、ウェスタミンスター寺院の入り口に並ぶ。

 入場料を払って中に入ると、そこはひんやりとした空間だった。

 外と同じで詰め込まれるようにたくさん人がいる。けれど私が寒さを感じたのは、ここに存在するものの内容を知っていたからだ。

「ここは墓地なんだよ。王族から科学者まで様々な人々のね」

「……ん」

「入ってよかった? 君、そういうの怖いんでしょ」

「姿が見えなければ、まだ何とか」

 置いてあるのは棺と彫刻だ。あの中に入っているかと思うと背筋は冷たくなるが、我慢できないほどじゃない。

 灯りが少なく、ぼそぼそと話す人の声と足音で満ちていた。小部屋と棺がいくつも横に並び、色彩もくすんだ灰色が多い。

 寺院、という呼び名は正しいと思った。聖堂や教会とは違う。ここは華やかな絵で天上の教えを描いて人々が集う場所というより、ただ眠る場所なのだろう。

「ウェストミンスター寺院っていうと、戴冠式のイメージがあるけど。どこにそんな大人数が入るの?」

 せいぜい横に並べるのは四人くらいで、座る場所などほとんど見当たらない。

「それは別室。この辺はほぼ棺ばっかり」

 そう言って、リチャードは顔を上向かせる。

「今日はまだ鳴らないな」

「ウェストミンスターの鐘?」

「戴冠式には鳴りっぱなしらしいんだけど。僕はそんなに聞いたことないや……」

 リチャードは珍しく静かだった。どこか沈んでいるようにも見える。

「どうかした?」

 いつもはリチャードが言う言葉を、私の側から投げかけてみる。

「いや、気にしないで」

 リチャードは表情を動かさないまま、軽く手を振った。

 やっぱり変だと思いながら、私はそれ以上問いかけることができなかった。

 奥まで来ると、天井に細かい彫刻がしてあるのを鏡で見ることができた。ただ、それもやはり色は薄かった。

 高い天窓から鈍く光が差し込んでいた。

「メアリ・スチュアート。処刑されたスコットランドの女王もいるんだ」

「レディ・ジェーン・グレイもね」

 淡々と、埋葬されている人々の名前を追う。

「チャールズ・ディケンズ。トーマス・ハーディ」

 ダーヴィンやニュートンまで埋葬されていた。キリスト教とは相性が悪いように思えるのだが、宗教については詳しくないのでわからない。

 中庭はおそらく春なら少し華やいで見えるのだろうが、真冬では木々も枯れ果てていた。

 どちらともなく黙り始めて、私たちは寺院を出た。

 石畳の道に入ろうとして、私は足を止めて振り返る。

「リチャード」

 本当にどうしたの、と問いかけようとした時だった。

 鐘が鳴り始めた。

「え?」

 キーンコーンと、私もよく知る音階で鳴り響く。

「学校のチャイムの音だったの?」

 ウェストミンスターの鐘は、私が小中高と毎日聞いていた学校の鐘の音だった。

 澄んだ軽やかな音に包まれて、私は思わず微笑みたくなった。

「……智子さん」

 ふいにリチャードが押し殺したような声で言葉を発しなければ、私は頬を上げていたはずだった。

「ここに来た時から、言おうかどうかずっと迷っていた。言えば間違いなく、君の楽しい気分を吹き飛ばしてしまうから」

 私はリチャードを見返して少し黙る。

 それから一つ頷いた。

「デニスにかかわる話なら、どんなことでも聞かせてほしい」

「……」

 リチャードは少し俯いて一度目を閉じた。

 彼が迷っているのがわかった。私はリチャードと半歩離れた場所から、じっと彼が口を開くのを待つ。

「デニスが亡くなる一週間前のこと」

 ぽつり、と雨粒が一滴落ちるようにそっとリチャードは話し始めた。

「少しの時間なら外出していいって医者にいわれたから、僕はデニスにどこへ行きたいか訊いたんだ。そんなに遠くは行けないけれど、連れて行くよって。そうしたらデニスは、『ウェストミンスターの鐘を聴きに行きたい』と」

 ここはデニスのロンドンで好きだった数少ない場所だ。たぶん私の知らない色々な思い出が詰まっているのだろうと、私は頷く。

「デニスはもう自分で歩けなかったから僕が車椅子を押して、寺院に入ったんだ。デニスはずっとぼんやりしてて、無言だった。気分が悪いのかと訊いたけど、それも聞こえてないみたいだった」

 だいぶ弱っていたのだろう。痛ましい思いがして、私も俯く。

「だけど、鐘が鳴ったら。デニスは笑ったんだ」

 リチャードが苦しそうに唇をかみしめる。

「『ああ、時間だ。智子が帰ってくる』って言うんだ」

「……私?」

 一瞬、時が止まったような思いがした。

「君の家は学校の近くで、君は高校が終わるとすぐに帰ってきたんだろう?」

「うん……大抵デニスの方が大学から先に帰ってて、リビングで新聞を読んでて」

 私は記憶を思い起こしながら、手が震えるのを感じた。

「どうしてか、いつも……」

 いつもデニスはリビングにいた。新聞なら毎朝読んでいくのに、デニスは自分ではテレビもつけないからリビングにいる必要もないのに、決まってそこで座って新聞を読んでいた。

――ああ、智子。

 それで私がリビングに入ると、たった今気づいたように目を上げて言うのだ。

――おかえり。

「デニスは、『智子は帰ってすぐに今日あったことを話したがるから。毎日怒ったり泣いたり忙しい。よく体力がもつな』って」

 私が家に帰ると、デニスは紅茶を一杯淹れてくれた。それを飲みながら好き勝手なことを話す私に、デニスは言葉少なく頷いていた。

「……僕は」

 リチャードは声を震わせて続ける。

「元気になったらどこへでも連れていってやるから。デニスの好きな場所へ、日本だってまた連れて行くからって、言ったんだけど」

 必死で告げたリチャードのその時の声が、聞いてもいないのに蘇るようだった。

「デニスは、『僕は日本の隅々まで旅したつもりだったんだけど』」

 そして、デニスの声も耳の近くで聞こえてくる気がした。

「……『今は智子と行った、東急ハンズしか思い出せないんだ』って、笑うんだ」

 でも鐘はとっくに終わっている。余韻すら、もう残ってはいない。

 私は顔を覆って泣いた。いくら拭っても、目から溢れてくるものが止まらなかった。

「デニスは君のことが好きだったよ」

 えぐ、と私は目を押さえてしゃくりあげる。

「想いが伝えられないくらい、好きだったよ……」

 風の冷たさも日差しの暖かさもわからなかった。

 リチャードがそっと私の頭を撫でてくれた、その気配だけを感じていた。