私たちを乗せたバスは、有名なタワーブリッジの上を走っていった。

 立派な石作りの橋は見上げるほどで、私はバスの二階からため息をつきながら眺めていた。

「ちなみにあっちがロンドン橋」

 リチャードは指さして楽しそうに歌う。

「ローンドンばーし、落―ちたっ」

「橋の上で言わんでください、頼むから」

 しかもさりげなく日本語版で歌うところが、この人のぬかりのないところだと思う。

「だって本当によく落ちたんだもん」

「はいはい」

 風で舞い上がる髪を押さえながら、私はリチャードに頷いていた。

 ぐるっと街を大周りして、私たちはセント・ポール大聖堂前で降りた。

 また大きなものを作ったなと思いながら大聖堂を見上げていると、ふいにリチャードが後ろから近付いてきた。

「智子さん」

「な、なに?」

 耳に口を寄せるように話すから、私は少しどぎまぎしながら振り返る。

「スリがいる。早く聖堂の中に入って」

「え」

 私の心臓が跳ねる。

 聖堂の前の階段には人がいっぱい座っていた。ガイドブックで見た時は、それはよくある光景で好意的な書かれ方をしていた。

 でも確かに何人か奇妙な歩き方をしている人がいる。何かを探るように通り過ぎる人をうかがって、その後にくっついていく。

 ゆらりと徘徊する、まるで目的が定まっていないようでどこか恐ろしい動きだ。

 その内の一人と目が合って、私は咄嗟に目を逸らした。

 走るように階段を上って、聖堂の中に飛び込む。

「大丈夫?」

 後ろにリチャードしかついてきていないことを確認して、私は自分が息を止めていたことに気付く。

「スリって……現実にいたんだ」

 少し上がった息で吐き出すように呟くと、リチャードは頷く。

「観光地には大体いる。イングランドは別に治安は悪くないけど、観光客狙いのスリや置き引きは日常茶飯事だ」

「そうだったんだ」

――どうしたの、デニス?

 私は以前、東急ハンズでデニスが辺りを見回している時に尋ねてみたことがある。

――人が多いから、スリに注意しないと。

――スリなんていないよ。

 私はきょとんとして、不思議なことを訊かれたように返した。

――見たことないし、私も家族も被害に遭ったことないし。大丈夫だよ。

――そうか。

 そう頷いた時の、デニスの複雑な表情を思い出す。

 日本にもいなかったはずはない。けれど私はそれを意識することなく、またそれでも暮らせていた。

「人の多いところでは鞄を前に持って押さえているといいよ」

「うん」

 私は早速リュックを前に回してぎゅっと抱きしめた。

 だけど荷物が気になって、せっかくの大聖堂を落ち着いて見ることができない。

 誰かついてきていないか怖くて、人が少し触れただけでそわそわした。

 天まで届くほどの壮麗なドームは美しかったし、日本語の音声ガイドもあったのに、結局私はほとんど大聖堂を素通りしてしまった。

「ごめんね。僕が脅かしたせいだね」

「リチャードが悪いわけじゃないよ。実際にあるものを私が知らなかっただけなんだ」

 リチャードにも心配をかけてしまったようで、私は慌てて返した。

 人気の少ない売店まで辿りついて、私はようやく少し息をつく。

「智子さん、こっち」

 リチャードはふいに私を呼んで、隅で売られているポスターを広げてみせた。

「煙の中のセント・ポール大聖堂……?」

「大戦中の写真だよ」

 周りは一面煙で灰色に染まっている中で、確かにセント・ポール大聖堂のドームが映っている。

「二度の世界大戦中、ロンドンも大変な被害だった。その中でこの大聖堂が残ったことが、ロンドン市民の心の支えになったといわれる」

「シンボルということ?」

「そう。この聖堂は何度も壊れては、再建された歴史を持つ」

 リチャードは目を細めて、煙の中の大聖堂を見つめる。

「同じように、ロンドンの人々も何度も災厄に見舞われた。大火災、コレラにペスト、そして数えきれない戦争。多くのものが失われながら、そのたびに立て直してきた」

 ロンドンに色々なものが混じり合っているのは、修復のためもあったのだろう。壊れては直して、そうやってどうにか生活の場所を作りだしてきた。

 私は火の中で静かに立ち続けるセント・ポール大聖堂の写真を、しばらくじっとみつめていた。