一時間ほどのクルーズで、私たちはロンドン塔に着いた。

「……塔じゃない」

「ここは元々要塞で、宮殿なんだよねぇ」

 高いタワー状の建物を想像していた私は意表をつかれた。そこは見事なお城だったのだ。

 整然とした石作りの宮殿に堅牢な城壁、その周りに満ちる水路、そして城の外には青々とした芝生の原っぱが広がっていた。

「漱石先生が倫敦塔っていうからてっきり」

 チケットを買って、意外と小さな入り口から入る。

 城壁の上の通路に立つと、テムズ河が見下ろせた。曇りだから遠くまでは見通せないけど、悠々と流れる川がすぐ下にある。

「あ、きれいな部屋」

 室内に入ると、中世の居室が再現されていた。華美ではないけどお洒落で、趣味のいい部屋だった。

「昔は普通に住んでたんだね」

「まあ王族だから、普通かどうかは知らないけどね」

 城壁に戻ると、兵士のレプリカが置かれていてその前で記念撮影をしているカップルがいた。

 城壁の内側を覗くと、観光客らしい人たちがみなのんびりと歩いていて、兵士の格好をしたスタッフが道案内をしていた。

「こうして見ると、のどかなところなんだけどな」

「ふふ」

 リチャードが含み笑いをしたので、私は嫌な予感がする。

「しかし夜になると……」

「やめてっ」

 私はさっと両耳を塞ぐ。

「今怖い話しようとしたでしょ。私本当に苦手なんだからね」

「わかってる、わかってる」

 リチャードはひらひらと手を振ってなだめるので、私は恐る恐る耳から手を離す。

「首を切られた王妃が、「首を返せー」って」

「わーっ」

 私は今度こそ頭を抱えて逃げ出そうとした。

「なんて、よくある話だよ」

 私の首根っこを捕まえて引きとめるリチャードに、私は睨み返す。

「単純だからこそ怖い。実際首を切られた人がここにはいっぱいいたんだし」

「デュラハンはアイルランドの妖精だってば。何か混じってそんな噂話が出来ちゃったけど、あちこちに似たような話がある」

 リチャードは指を立てて言う。

「映画『スリーピーホロウ』だってほら、舞台はアメリカだし」

「ええ、見ましたとも。ジョ○ーが出てるからね」

 憧れのジョ○ー・デップの姿が見たいがために震えながら最後まで鑑賞した。電気をいっぱいつけて、両親とさらにデニスまで巻き込んで。

 わーとかぎゃーとか叫ぶ私をデニスがどんな呆れた思いで見ていたかは、想像したくない。

 軽く頭をおさえてまた室内に入ると、そこは監獄だった。

「ロンドン塔といえば監獄だよね」

 過去こんな人が収容されていました、というようなことが英語で説明されていた。

「監獄が一体となってる建物に住む王様って、どんな気分なんだろう」

「ここに来るのは重要な囚人ばかりだから、なるべく近くに置いておきたかったんだろうね」

 確かに、その発想自体は特異なものではない。

 日本の高山に行った時も、陣屋という昔のお役所の建物に囚人を入れておく籠とかが置いてあった。権力者だからこそ、いつ逆の側の人間になるかわからない。危険因子から目を逸らすことができない。

 外に出ると日差しが少し暖かくなっていた。

 衛兵さんがきびきびと行進していた。それを遠目にうかがって、私たちは宝石博物館に入る。

 そこには歴代国王および女王の戴冠式の冠が、映像とともに紹介されていた。

「王様とか女王陛下の冠、どんどん豪華になってない?」

「前より地味にしたら寂しいじゃない」

「それはそうだけど、重そう」

 数百個の宝石が金の冠に埋め込まれている。しかも、たぶん私たち庶民なら一粒で一生暮らせるような大きさだ。

 眩しいし綺麗だけど、見ている内に感覚が麻痺してくる。あまりに非現実的な豪華さに、イミテーションと見分けがつかなくなってくる。

 ぼんやりしている内に宝石博物館を出た。

「あ、お土産屋さん」

「宝石も売ってるんだよー。「どうです欲しくなってきたでしょう?」って」

 イングランド人のしたたかさに苦笑しながら、芝生を横切った。

「ここが色々いわくつきのブラッディ・タワー」

「うう……」

謎の失踪を遂げた幼い二人の王子が幽閉され、殺害された現場だとも言われている場所らしい。

「ほら、入っておいでよ。別に今は何も残ってないよ」

 私は若干ためらいながら、リチャードの後にこそこそとついていく。

 中は確かに他の塔の中と変わりはなかった。修学旅行らしい学生たちでごったがえしていて、特に恐ろしい拷問器具が置いてあったりはしない。

 ただ、隅に三つのスイッチがあった。王子たちを殺したのは誰か、自分の思う候補に投票するというシステムのようだった。

 私はそのボタンの前で考えた。

 実際のところ、王子たちの死の真相は現在に至るまでわかっていないという。

 王家の者が消えて数百年も不明なままになっている、そのこと自体が恐ろしい。

「全部押しちゃえ」

 横から手を伸ばして、リチャードが三つのボタンを順番に押した。

「……今真面目なこと考えてたのに」

「残念でしたー。智子さんが構ってくれないせいです」

 本当に子どものようなことをするんだから、と私はリチャードを見上げてぷっと笑っていた。