西に飛び続けると太陽が沈まないのは本当らしい。

 私は薄暗い機内の窓の隙間から微かにこぼれる光を覗き見て目を細める。

 日本から韓国のインチョン空港へ、そこから乗り換えてひたすら西へ向かう。フライト時間は全部で約16時間。ほぼ丸一日ほとんど身動きが取れないまま、食事だけはたっぷりと出される。

 海外旅行初心者には辛すぎないか、これは。

 飛行機とはかくもハードな環境だったのかと、いきなり幸先が心配になる。

 周りを見渡すと、乗客は皆目を閉じてぐったりしている。それにならって、私も硬い座席に背中を預けた。

 目だけを窓の外にやると、やはりそこには消えることのない光の筋。

 まだ、着かない。沈まない太陽を見ていられる。

 降りるために乗っているのに、降りないことをどこかで望んでいる自分は少しおかしい。

 でもそんなことは問題じゃないのかもしれない。

――デニス・グリーンです。イングランドから来ました。

 おかしいというなら、彼に会った時から自分は変だった。

 にこりともしない仮面のような顔立ちの中、緑の目だけが冴え冴えとした光を放っていたのを覚えている。

 一目見て、冷たそうな外国人だと思った。もしかして青い血が流れていたりするんじゃないかと考えたほどだった。

 実際、優しくなんてなかった。去っていく時まで何を考えているのかさっぱりわからなかった。

――春になったらイングランドにおいでよ。

 それでも私は、今彼の故郷に向かおうとしている。

――うん。行くよ。絶対行く。

 三年前に果たせなかった約束を果たすために。














 ヒースロー空港に到着したのは現地時間で夜八時だった。

「通った……」

 片言の英語は通じなかったが、入国審査は何とか通過した。

それだけでどっと疲れながら荷物を拾って、私はだらだらと出口に向かう。

 トランクを転がしながら到着ロビーを歩いていたら、唐突にぽんと肩を叩かれる。

 ……まずい、変な人か?

「とーもーこーさん?」

 そう警戒して無視しようとした私は、聞き覚えのある声で名前を呼ばれたことに気付く。

 振り向いて、まあ背の高い外国人のおにいちゃんだこと……と思った瞬間だった。

「イングランドにようこそっ」

 いきなりぎゅっとハグされて、頭の中が真っ白になった。

 しかし一瞬後には、私の知る限りこんなことをする人間は一人しかいないと気づく。

「何する、リチャードっ」

 突き飛ばすようにして離れる。自分の耳が熱くなるのがわかった。

「かわいー、照れちゃって」

「いきなり人が抱きついてきたら誰だってこうなるっ」

「みんなやってるよ」

 彼が指さす先では、到着出口から出てくるなりしっかり抱き合う人たちがいた。

「……あれは」

 私は一息分だけ考えて、憮然と彼を見上げる。

「日本でやったら公然わいせつ罪で捕まる大罪なんだ」

「智子さんの嘘つき。そんなわけないやい」

 くすくすと笑って一蹴されてしまった。

 ダークブロンドの髪に緑色の目。それだけの特徴を見るとやはり彼はデニスの兄なんだなと思う。

 私がちょっと黙って彼の顔を眺めていると、リチャードは心配そうに眉を寄せた。

「大丈夫? 疲れたんでしょ。君、海外旅行初めてだもんね。よく一人で来れたね。よしよし、がんばった」

 でも無表情が常だったデニスと違って、リチャードは一瞬ごとに表情が変わる。今悪戯っ子の顔をしていたかと思えば、もう世話焼きな兄さんの顔になっている。

「ま、ホテルまで送るから車に乗りなよ」

「別に地下鉄で行くからいいよ」

「ダメダメ。女の子一人じゃ怖い所もあるからね」

 そう言ってひょいとトランクを取り上げてしまう強引さも、デニスには無かったところだ。

「で、ホテルどこよ? 智子さん」

 にやっと笑うリチャードに、私は小さくため息をつく。

 教えなければホテルまでついてくる気だ、この人は。三年来のメル友の付き合いでそれくらいわかっている。

「ああ、そこ知ってる。んー、危ない所にはないね。よかった」

 仕方なくホテルの地図を見せると、リチャードは軽く頷いてみせた。

 空港の四階から外に出て、私たちは車に乗り込む。

「ベイビ、ベイビー」

 ラジオから流れる曲を鼻唄どころでなくばっちり歌いながら、リチャードは車を飛ばし始める。

 赤茶色の落とした灯りが左右を飛んでいく。窓から吹き込む風は、どこか懐かしい匂いがした。

 ヒースロー空港は郊外だから、まだ町は見えない。日本とは違って看板もほとんどなくて、私は目をこらして窓の外を見ていた。

 ふとリチャードは歌を収めて言う。

「……なんで最初から迎えに来てって言わないの」

 一瞬、リチャードの声が酷く不機嫌に聞こえた。

「智子さんの意地悪。そんなことしたら、意地でも迎えに行っちゃうもんねー」

 少し驚いて振り返った先には、ぺろっと舌を出しておどけた横顔があった。

「全七日間。実質観光できるのは五日間だっけ。僕が案内してあげる」

「なっ」

 今度は別の意味で驚いた私は、慌てて続ける。

「仕事はどうするの。君に春休みなんてものはないでしょうが」

「ちょっと早いバカンスだと思えばいいさ」

「半年以上早いよ。いいって、勝手に回るから」

「だーめ。もう休み取っちゃったもん」

 けらけらと笑って、リチャードは緑の目を微かに細める。

「やっと君が来たんだからさ。……デニスも喜ぶよ。きっと、すごく」

 車の中に訪れた静寂に、私は目を伏せるしかなかった。

 視界の隅で、リチャードが少し身じろぎする。

「デニスの話はしない方がいい?」

「ううん。いっぱいしてほしい」

 私は顔を上げてリチャードを見る。

「ずっと知りたかった。デニスのこと。そのために来たの」

 リチャードは小さく頷く。

「わかった……さて」

 彼は頬を上げて笑みを作る。

「外を見てごらん。ここがロンドンだよ」

 私は窓の外に振り向いて言葉をなくす。

 そこは異世界だった。目に映るすべてが私の住んでいた場所とは違った。

 まず目に止まるのが建物の高さだ。軽く四階はある。それだけなら日本にだってあるけど、ここはすべてが高い。自分が小人になったような錯覚を受ける。

 形も全然違う。石で出来ていて、おとぎ話に出てくるお城のように壮麗な作りをしている。

「……きれい」

 そして何より色彩が美しかった。

 控えめで、丁寧に筆で撫でたようにしっとりとした、優しい色合いだった。

「デニスは、イングランドはアンティークの箱みたいなところだって言ってた」

 そっと窓に指を置いて、私はガラス越しに異国の風景に触れる。

「古い時間が、昔のままの形で残ってるんだって」

 伝統と歴史と文化の国だと、デニスは語った。

 確かにこの街にはいにしえの時間が生きている。

「でも、まだここじゃない」

 私はリチャードに聞こえないくらいの小声で呟く。

「ここには……いない」

 ここは人が溢れてる。眩しい電光も、あからさまな人工物が多すぎる。

 無機質で生命の色すら取り払ったような少年の影は、この街にはない。

 デニス、どこに行けば君に会える?

 私は心で問いかけながら、初めて出会ったイングランドの街並みを眺めていた。













 ホテルは格安で取ったから、わりとボロい感じの所だった。

「もー、僕ん家に泊まればよかったのに」

 リチャードはもう何度目かになる文句を呟きながら、私の泊まる部屋を見て回る。

「水道とトイレは、と……うん、壊れてない。バスもちゃんとお湯出るね。鍵もかかる。まあ貴重品とかは部屋に置かないようにすれば大丈夫」

「うん」

「お、ドライヤーついてる。普通は借りるんだけど、君ラッキーだよ」

 リチャードは長い足で部屋を隅々まで歩きまわってチェックした。

「あっ、この電気つかない。コンシェルジュに電話して直してもらうか、部屋代えてもらおうよ」

「待って」

 ぱっと電話を取ろうとするリチャードを手で押しとどめて、私は言う。

「せっかく休み取ってもらったんだから、この際リチャードに案内はしてもらう。けど、現地の人と話すのはなるべく私にやらせてほしいんだ」

 リチャードは屈んだまま振り向く。

「ここの人たちのことを知りたいから。英語も勉強したんだ。ちょっとなら話せる」

 下手だけど、と小さく付け加えると、リチャードは受話器を戻す。

「いいよ、やってごらん」

 にこ、と笑って、リチャードは立ち上がる。

「見ててあげる。大丈夫、駄目なら僕がいるから」

 私もちょっと笑い返して、受話器を取る。

 電話は自動でフロントにかかった。早口の英語で何か言われて、私はその内容が聞きとれないながらも言葉を放つ。

『ライトが、駄目で』

 電気がつかない、をどう言えばわからないから、そんな感じのことを言った。

 しかしどうも伝わらないらしく、少し困った様子で返される。

 どうしよう。早口の英語ってこんなに聞きとりにくいのか。

 仕方ないから私は繰り返し、ライト、と、使えない、をほとんど単語同然で告げる。

 やがてフロント係は少し黙った後、探るように問いかけた。

「The lights don’t work?」

 たぶんそれだ、と思って、私は電話口だというのに大きく頷く。

「Yes!  Light, Don’t」

「OK」

 早口でフロント係は何か言った後、電話を切った。たぶん、直します、とかそういう言葉だったと思う。

「よしよし、がんばった」

 大きく息をついてベッドに腰掛けたら、リチャードがにっこり笑って頷いてくれた。

「疲れた……」

「コミュニケーションってそういうものでしょ」

 リチャードは腰に手を当てて私を見下ろしながら言う。

「でも大丈夫。言葉が伝わらなくても、なんとなくわかるから」

「そうかな」

「そーそ。まあ一ヶ月もしてごらん。慣れるから」

「そんなに長くいないよ……」

 私は頭を押さえて少し考えてから、つと顔を上げる。

「そういえば、ずいぶん日本語上手くなったね。リチャード」

 あまりに自然にしゃべっていたから気付かなかったけど、リチャードは空港で会ってからずっと日本語を話している。

「でしょ? 僕だってがんばったんだよ」

 胸を張るリチャードはちょっと子どもっぽかったけど、思わずくすっと笑ってしまった。

「さ、もう遅いから寝なよ。明日はどこ行く?」

 私が微笑ましいと思った内心が見えたのか、リチャードは照れ隠しに早口で言った。

「そうだね、明日は……」

 短く明日の相談をした後、リチャードは部屋を去っていった。

 一人残った部屋で、私はベッドの上に座ってパスポートケースを取り出す。

 お守りのように首に下げたそれには、デニスからの手紙が入っている。

 ……デニスが亡くなる数日前に書いた、私への手紙が。

「来たよ、デニス」

 ケースごと手紙を胸に抱いて、私は呟く。

――イングランドに来たら、まずコッツウォルズに行くといい。

「うん」

 ごろんと、ベッドに横になる。

「行くよ、君に会えるまで」

 壊れたベッドライトの下で、私はしばらく天井を眺めていた。