私は何も言わずそのまま彼のそばを離れ、事務所に戻ろうとした。

「ちょっと待って」

彼の手が突然私の手を握り、離れようとした体が引き留められる。

「な?」

あのきれいな繊細な彼の手が私の手をしっかりと握り締めていた。

体中が熱く脈を打つ。

彼の顔を見れないまま「なにするんですか」と小さく答えた。

「俺、和桜さんの気に障るようなこと何か言った?」

思いの他切羽詰まった彼の声が私の頭の上で響く。

ゆっくりと顔を上げると、吉丸さんは固い表情のまま私を見下ろしていた。

捨てられた猫みたいな切ない表情だと思った。

あの時みたいに、全てを許してしまいたくなるような。

これ以上見ていられなくて目を逸らす。

「とりあえず、この手離して」

長くて美しい指が私の手から静かに離れた。

「・・・・・・この後、予定ある?」

彼は私を正面から見据えて真面目な顔で言った。

「俺、この近くで一件だけ仕事が入ってるんだけど、それが終わったらフリーなんだ。食事でも一緒にどうかな」

きっと彼は私が気分を害したと思ってるんだ。

だからお詫びを兼ねてそんな風に誘ってる。

いわゆる社交辞令だよね。

「私もこれからここで仕事なの」

「ここで?」

吉丸さんはそう言いながら館内を見回した。

「和桜さんはここで働いているの?」

「ええ」

「しっくりくるね。ここで働く和桜さんて」

しっくりってどういうことなのかしら。

いちいち回りくどい言い方をする人だけど、嫌な気持ちはしなかった。