小さな広告会社に勤めている私と文子は、普段、職場では何から何まで自分たちでこなさなくてはならない。私たちは自嘲的に、お互いを「男前な女」と呼び合っていた。営業からデザインまで、仕事のためなら徹夜も辞さない私たちだったが、唯一の不安は「嫁にいけるか」。それは、私たちの心の中に常にある不安だったが、日頃はできるだけ目を逸らせようとしていた。しかし定年間際の経理課長が、毎日ぼやくように私たちに、
「あんたたちを嫁に貰うような男はいるのかねぇ。ヒモみたいなのにひっかかっちゃだめだよ」
などと言うのでいらいらして、
「それなら課長、誰かいい人紹介してくれますか」
と言い返すと、彼は老眼鏡を鼻の上でいじりながら、
「あんたたちみたいなの、紹介できますかいな。良妻賢母になる保証がなければ、人に結婚相手の紹介なんてできしません」
と意地悪そうに笑うのが常だった。


----------

 私がローマで宿泊するホテルは、日本からネットで予約を取った小さなホテルで、コロッセオに近い。どのホテルがいいか迷ったとき、マー君が薦めてくれたのがここだった。周囲の治安がよい上に安く、泊まった人がよかったと言っていたから、ということだ。彼と一刻も早く会いたいのは、やまやまだけれど、あいにく、彼は学校の研修でフィレンツェへ行っている。帰りは今夜遅くになるが、今夜中にきっと訪ねて来てくれると約束した。

 実物のマー君に会うのは七ヶ月ぶりだ ・・・ そう思うと心がわくわくする。私たちは国際電話やスカイプで、週に一度は話せる機会を作っていたが、時差や私の仕事上、それがかなわないときもあった。
 それでも、私の恋の炎は消えなかった。彼とはいつか、一緒に暮らせるかもしれない、と望みをかけていたから。何事も強く信じれば叶うものなの。それに私の仕事も忙しく、帰りは終電も珍しくなかったので、例え近くに住んでいたとしても、それほどしょっちゅう会うことはできなかったはずだ。

 私は宿泊ホテルにまず荷物を置き、一休みしてから近隣を散策することにした。
 私が着く日はちょうど、マー君は迎えに来られないのは納得していたが、大きなスーツケースを引いて、でこぼこした石畳をふらふらと足をとられながら歩くとき、本当なら彼に空港まで迎えに来てほしかった、と心から思った。私だって仕事が休める日を最大限に利用しようと思ったら、この日到着するしか、なかったのだし。休みが取りにくいのが、悲しい日本の社会人なのだ。

  コロッセオに近い私のホテルは、ごみごみした下街の一角を少し入ったところにあった。ローマの通りはどこもガタガタの石畳で、その上あちこちにゴミや犬の糞が落ちている。そこに、スピードを上げたスクーターや、小型車が飛び込んで来るので、まっすぐ歩くのも難しいほどだが、いったんホテルの表門をくぐってしまえば、そこは閑静な住宅と、適度に手入れされた庭があった。決して新しくも高価でもない内装や調度品だったが、清潔でアットホームな雰囲気に、好感を覚えた。
 「ウェルカム」
 フロントで、英語で出迎えてくれたのは、私と同年代ぐらいの、口髭を生やした男だった。長い睫毛に鳶色の目をして、ウェーブがかかった黒い髪をオールバックに梳かし整えている。身につけているものは、恐らく高価なものではないだろうが、ラフさと伊達が微妙なバランスを保っているのが見えた。イタリアファッションが日本でもてはやされるのは、普通の人々が普段からこんなにさりげなくかっこいいからだ、ということが、にも納得できた。
 私もできるだけの笑顔を返し、ホテルのバウチャーを渡した。
「三泊だね。日本から一人で来たの?」
 彼は唇に人懐こい微笑みを浮かべた。形のいい唇に思わず釘付けになった。日本での経験から、口髭なんて生やしている男は気持ち悪いキザ男と決め付けていたが、こんな唇の人になら似合うんだ・・・ と新発見をした気分だった。
「ええ、眺めのいい部屋をお願いね」
「そうだな ・・・ ちょうど最上階の部屋が開いていますよ。残念ながら、スイートルームではないけれど、かなり広い部屋ですよ」
 私が払った金額なら、それで上々だろう。彼は気さくで話しやすい人のようだ。キーを受け取り、とても狭いエレベーターに乗った。こんなエレベーターなど、四人も乗れば一杯になるだろう。この街の建物はほとんどが、古いものをそのまま改築して、今も使っているようだ。東京とはえらい違いだけれど、こういうところが魅力なんだろうな、特にマー君みたいな人には・・・。

 一番クラスの低い部屋を予約したはずなのに、ドアを開けてみると、言われた通り、とても広いのに驚いた。壁は濃い緑色、そして窓は重厚なサテンのカーテンで何重にも縁取られている。クラシックな花柄のカバーがついた、ダブルベッドが、中央にどんと置いてある。 特別豪華でも新しくもないが、イタリア映画で見たような雰囲気そのままだ。
窓を開けると、ローマ市内が一望できた。古く茶色い建物 ・・・ ここ数十年の内に建てられた高層ビルはどこかにあるのかしら? 全ての建物が埃をかぶったように靄がかかって見える。
「すごいわ。やっぱりここまで来た甲斐があった」
 私はこの部屋の異国情緒に、至極満足だった。

(続く)