「シャツ脱げや」

ここに来てからの流れに追い付けず、ただ足元に水溜まりを作るだけだった私の意識をその一言が引っ張り上げた。自分が想像するよりも遥かに大きな声が出た。

「嫌や、なんで」

毛穴から湯気が出てしまうんじゃないかと思う程に頬が熱くなったがあいつはロッカーを漁ったまま答える。

「干さんといけんじゃろうが。風邪引いてええんか。誰かのドライヤー借りて乾かしゃ一発じゃろ」

ふわりと顔に投げ付けられたのは濃紺のジャージだった。そのジャージを手に取り固まる私に少し苛立ったようにあいつが言葉をぶつける。

「向こう見ちょるから早うせぇ」

「……あり、がと」

狭い部室。外からは窓を叩く雨音が響いている。言葉を交わすにはあまりにカードが少なくて、私はただ何度か感謝の言葉を口にした。だけど、あいつは何も言わないから、感謝の無駄遣いをしている気分だった。

結局ドライヤーでも期待程乾かずに時刻は七時目前になっていた。

「もうええわ。今の時期ジャージ使わんから貸しちゃる」

痺れを切らしたのか舌打ちをしてドライヤーを投げ付け立ち上がった。

ゆらりと揺れた前髪に引き寄せられて私は静かに手を伸ばす。
さらりと指をすり抜ける青黒い髪。指の皮膚をすり抜けて、心臓に絡まりつかれたような錯覚をおこしてしまいそうだった。

雨が弱まり、辺りが暗くなった今この時まで会話という会話などしていなかった。それに印象なんてものはジャージ一枚で簡単に変わるものでは無い。

「なんじゃあ……気安く触んなや」

だけど月の明かりを独り占めしたような青黒さに、触れずにはいられなかった。

「綺麗な髪じゃね。あんた、名前は?」

「……触んな言うとるやろ。……高木、陸」

伸ばした右手を掴まれた。前髪から覗く細い目はまるで空に浮かぶ三日月の様で、心臓の裏側に夜風が吹いた。

「陸、……似合わん名前じゃね」

「なんなら似合うんよ」

小さく笑ったあいつは、陸の瞳は、三日月そのものだった。

「最低、がお似合いじゃ」

掴まれた右手を引かれて、ほんの少しダサいTシャツに顔を埋めたのは八時五分前の事だった。