『お久しぶりですね、先生』

彼女には家庭がある。だから他の女性よりもずっと、扱いが楽だった。

だがホテルまで行ったはいいものの、結局彼女のことは抱けず。
もう他の方法が思い浮かばない、なんて思っていたとき、天罰が下ったんだ。

誰とも知らないスーツの男たちは、彼女のことを“桃”と呼んでいた。
背の高い体育会系の男が彼女の肩を抱いた時には、殺意を覚えた。

しかし、涙を堪える彼女も、柄にもなく菊池さんに感情的になった彼女も、すべては俺のせいだ。
だから彼女がその男の肩に抱かれているのも、つまり俺のせいなのだ。
俺にできることは、なにもない。
あるとすればもう、彼女を自由にしてあげることくらいだ。

でもそんなのも、そう簡単には受け入れられなくて。

俺はアポもなく、剣士の家のインターホンを鳴らした。


「あ!?お前なに泣いてんだよ」

玄関には女性物のショートブーツが揃えられている。
そしてどうやら俺は、泣いていたらしい。

「あぁ、ごめん。誰かいたんだ」

「いや美沙ちゃんだから。いいから早く入れって」

通された先のリビングには、まだ髪の毛が半乾きの彼女の姿があった。

「え!?先生!?なんで泣いてんですか」

「俺そんなに泣いてる?」

目を丸くした彼女に聞き返すと、うんうんと2度大きく頷かれた。
物心ついた頃から、泣いたことなんてなかったのに。
やっぱり俺にとって彼女は、厄介で特別な存在らしい。

「里香ちゃんとなんかあったんだろ」

剣士が珍しく、缶ビールじゃなくココアなんかを持ってきてくれたとき、里香の名前に一瞬眉をひそめた近藤さんを、俺は見逃さなかった。
どうやら、まだ仲直りしていないようだ。

冷たい空気と同時に、胸に容赦なく突き刺さった先ほどの光景が、温かいココアによってだんだんと溶かされていく。
そして俺は少しずつ、今日の出来事を話し始めていた。