ビーサイド


玄関のドアが閉まると同時に、靴を脱ぐ間もなくキスをされる。

涼くんの濡れた手が肌に触れると、私の体は熱を上げた。
彼の唇の感触に、胸がひどく締め付けられて、苦しい。

「泣かないでよ」

彼の言葉で初めて、自分が泣いていたことに気付いた。

私のゼロに等しい経験値では、この状況に対する打開策がまったく見いだせない。
よくないこととわかっていながら、どうして私は彼に絆されてしまうのか。
それを嫌だと思わないのか。

答えは簡単だった。

昨日出会ったばかりで、こんな気持ちになるなんておかしい。
きっと未知の経験をしすぎて、どうにかなってしまっている。

そうやって言い聞かせても言い聞かせても。

強引に引かれた腕も、奪われた唇も、幸せに溢れていた。

こんな人追いかけたって、どうしようもない。
私の望んだ未来が待っていないことは明白だ。

「朱音さんはなんも悪くないから」

わかっているのに私は、今目の前の彼を拒絶できない。

「俺に騙されてればいいよ」

こんな台詞が吐ける23歳のイケメンバンドマンなんて、無謀すぎる。
私なんかの手に負える人じゃない。
わかっていても、この手は唇は、彼を求めてしまっている。

「…もう敵わないや」

心で呟いた言葉がまたも口に出ていたが、彼に抱き締められると、そんなことはどうでもよくなっていた。


― もう騙されてしまおう。

12年間、周りが合コンだ街コンだと騒ぎ立てていた頃、私にはずっと特別な1人がいた。
青春ってやつがあるとすれば、私の青春は洋介一色だ。

その洋介がいなくなった今だけ。
次の相手を探すまでのほんの少しだけ。

もう二度と私の人生に関わるはずもないであろう、涼くんのような人に騙されるのも、悪くないんじゃないか。

だからこれは、この気持ちは、絶対に恋にしない。
あえていうなら、“遊び”だ。

本能だけで生きていけるほど若くない私は、わずかに芽生えていた恋心を胸の奥の奥にしまいこんで、決して開かないよう厳重に鍵をかけた。