ビーサイド


昨日はごちそうになったから、とここは私が支払いを済ませた。

「気にしなくていいのに。ごちそうさまでした」

涼くんはそう言ってふにゃっと笑った。

そんな顔されると、一瞬、なんでもごちそうしたくなってしまうような危険な衝動に駆られるから、本当にやめてほしい。


「さて、駅はあっちで、うちはこっちね」

涼くんは店を出て、左右を交互に指差した。

「うん?」

「どっち行く?」

まるで私がなんて答えるのかを見透かしたような目で、彼は私を見る。

心の奥にある気持ちには気付いていた。
だがそれを認めることは、やっぱりできない。

私は自分の理性に従って、駅の方を指差そうとした。

「あーごめんごめん。朱音さん優柔不断だもんね」

涼くんは私の手を取って、家の方へと向かって歩き出す。

昨日とはうってかわって、蒸し暑い土曜日の昼下がり。
曇天の空から、気付けばパラパラと雨が降り始めていた。

「涼くん!」

本当は嫌じゃない。
なんなら、嬉しい気持ちの方が大きかったかもしれない。

だけどそれじゃだめなんだ。

私は努めて慌てた声を上げた。

「なに?まだCD貸してないでしょ?」

振り返ったその顔は、なぜか悲しそうに歪んでいて。
雨のせいで余計にそれが助長されている。

― どうしてその顔を私に向けるの?

やっぱり私なんかじゃ、彼の考えていることがこれっぽちもわからない。

「そうだけど…」

こんなの良くない、そう言いたかった。

だがまた彼のあの瞳に捕えられてしまうと、取り繕ったことを言っても無駄な気がして、何も言えなくなる。

「ほら。雨強くなってきたから早く帰ろ」

頭に被せられたパーカーから香る、あの甘ったるい香り。

― こんな人、どう考えたって無理。

わかっているのに、気付けば私はまたあのアパートの前に立っていた。