✻
自分の部屋に入って、鍵を閉める。
出てきた時となんら変わらない部屋に一つだけ、
見知らぬものがあった。
机の上に、印刷された紙の束。
これが、珀の小説?
私はその紙の束を手に取った。
ベッドに座って、一ページ目を見た。
「君へ告ぐ」「杉内珀」と書かれている。
その字は、珀のものだった。
その文字をなぞると、体が震えた。
珀は、私の体を使ってこれを書いていたの?
ページを捲ると、物語が始まろうとしていた。
―彼女はいつも、真っ直ぐだった。
―彼女はいつも、真っ直ぐだった。
その双眸はいつも光り輝いていて、
僕の眸を、真っ直ぐ見つめ返してきた。
僕はその、彼女の眼差しが好きだった。
彼女は作家だった。
面白い物語の世界を、
僕に語って見せるその姿は、とても楽しそうで、
とても幸せそうで。
けれど彼女は悩んでいた。
その世界を言葉にする術が私にはない。
そう嘆く彼女はあまりにも悲しそうで、苦しそうで。
なんとかしてあげたいと僕は思った。
そして思いついたんだ。
そうだ、僕がこの声で、導いてあげよう。
僕もまた、作家だった。
僕が言葉を紡げば、彼女は真剣な眼差しでペンを走らせる。
一字一句間違えずに、何一つ言葉を漏らさずに、
彼女は書き続けた。
それは文字を書けない僕と、
言葉を上手く紡げない彼女の、
最初で最後の共同作業だった。
僕の声に、彼女が反応する。
僕の言葉一つ一つを、
彼女はすごいと称賛する。
その声は、その笑顔は、
僕の耳と目を擽った。
この時間がずっと続けばいいと思った。
文字を書けなくなっても尚、
僕はとても幸せだった。
片翼を失った孤独な蝶は
飛べずにもがいていたけれど、
僕は、新しい片翼を見つけたんだ。
「は、珀……」
私だ。
私のことが書いてある。
「僕」は珀だろうか。
珀はこんなことを思っていたの?
何も言わない珀だったけれど、
本当はこんなことを思っていたんだ。
小説は更に続いた。
ページを捲る手が止められなかった。


