片翼の蝶






自分の部屋に入って、鍵を閉める。


出てきた時となんら変わらない部屋に一つだけ、
見知らぬものがあった。


机の上に、印刷された紙の束。


これが、珀の小説?



私はその紙の束を手に取った。


ベッドに座って、一ページ目を見た。


「君へ告ぐ」「杉内珀」と書かれている。


その字は、珀のものだった。


その文字をなぞると、体が震えた。


珀は、私の体を使ってこれを書いていたの?


ページを捲ると、物語が始まろうとしていた。








―彼女はいつも、真っ直ぐだった。










―彼女はいつも、真っ直ぐだった。
 その双眸はいつも光り輝いていて、
 僕の眸を、真っ直ぐ見つめ返してきた。

 僕はその、彼女の眼差しが好きだった。
 
 彼女は作家だった。

 面白い物語の世界を、
 僕に語って見せるその姿は、とても楽しそうで、
 とても幸せそうで。

 けれど彼女は悩んでいた。
 その世界を言葉にする術が私にはない。
 そう嘆く彼女はあまりにも悲しそうで、苦しそうで。
 なんとかしてあげたいと僕は思った。
 そして思いついたんだ。

 そうだ、僕がこの声で、導いてあげよう。

 僕もまた、作家だった。
 
 僕が言葉を紡げば、彼女は真剣な眼差しでペンを走らせる。
 一字一句間違えずに、何一つ言葉を漏らさずに、
 彼女は書き続けた。
 それは文字を書けない僕と、
 言葉を上手く紡げない彼女の、
 最初で最後の共同作業だった。

 僕の声に、彼女が反応する。
 僕の言葉一つ一つを、
 彼女はすごいと称賛する。
 その声は、その笑顔は、
 僕の耳と目を擽った。

 この時間がずっと続けばいいと思った。

 文字を書けなくなっても尚、
 僕はとても幸せだった。

 片翼を失った孤独な蝶は
 飛べずにもがいていたけれど、
 僕は、新しい片翼を見つけたんだ。








「は、珀……」


私だ。
私のことが書いてある。


「僕」は珀だろうか。


珀はこんなことを思っていたの?


何も言わない珀だったけれど、
本当はこんなことを思っていたんだ。




小説は更に続いた。


ページを捲る手が止められなかった。