「珀」
私は立ち上がって珀の名前を呼んだ。
珀は私に気付いて振り向くと、微笑んだ。
そして夢の時のように手招きをする。
私はそれにつられてぼうっと、ただひたすら歩いた。
そんなに距離はないはずなのに、
いつまでたっても珀に近付けない。
どうして?足が重たい。
何が起こっているの?
「珀!」
〈茜。おいで〉
珀が手招きをする。
私の足は、珀に向かって歩き出していた。
どんどん歩く。人を通り抜けて、歩く。
しばらくするとだんだん珀の顔が近づいてきて、
あともう少しというところで、
珀は手招きしていた手を下ろした。
すると突然、体が動かなくなる。
えっ?と思って珀を見ると、
珀は苦しそうな顔をして私を見つめていた。
〈茜、ダメだ〉
「どうして?珀、私そっちに行きたい」
〈来ちゃ、ダメだ〉
「でも、珀。私……」
〈俺に触れると、戻れなくなるぞ〉
「それでもいいの。私―」
はっと、息をのんだ。
それでもいい?本当に?
戻れなくなってもいいの?
そう思いながらも私が珀に向かって手を伸ばすと、
珀は一歩身を引いた。
〈ダメだ。茜〉
ふいに真紀の言葉を思い出す。
触れたら最後、戻れなくなる。
絶対に触れちゃダメだからね。
真紀はそう言った。
分かっている。分かっているんだけど、でも。
もう一度、珀に触れたいと思った。
あの感覚をもう一度味わいたいと思った。
冷たいんだけど、温かなあの感触を、もう一度、この手に。この胸に。


