「あ、すげぇ、阪神の(ムニャムニャ)のサインだ!今年の阪神、どうですかねぇ~!?」

 固有名詞を知らない場合、早口でムニャムニャ言って通じさせるのが、小早川ケンタの常套手段である。これは彼がビジネスで養った一つのスキルを言ってよい。

 島津は、ちらとサイン「夢」を振り返り、こう言った。

 「。あれは、わたしのものではなか。」

 島津はまた一呼吸おいてそういった。必ず話す前に一呼吸おくのは、あたかも翻訳をしながら話しているような印象があった。

 「あ、、、そうですか、、、」

 小早川ケンタはしくじったと思った。宿直に詰める警備員は何人もいる。「夢」はそのうちの誰かのものだろう。小早川ケンタはこの誰かを心の中で恨みがましく非難した。大体、職場にサインを飾るなどとは不謹慎であると。しかしそう考えたところで、小早川の今の窮地
に変わりはない。小早川のアテは完全に外れたのだ。島津は虎党ではなかったのである。

 小早川は島津に取り付くシマを完全に失ってしまった。が、これは結果的には幸運だったというべきかも知れない。そもそも小早川ケンタはスポーツ音痴であり、阪神タイガースについても球団名、監督名等の基本的な情報しか知らないのだ。もし島津が熱烈な阪神ファンであったなら、たちまちチグハグな会話となり、小早川のにわかファンぶりはすぐに露呈しただろう。小早川ケンタには、浜中選手と林選手のポジション争いについて所見を述べることなど出来ないのである。

 いずれにしても進退窮まった小早川。この際は、と彼は持ち前の性格で正直にこう言った。

 「スイマセン、実は、僕、野球は詳しくないんです。エヘへ。」

 そう言われた島津は意外にも小早川に向かって微笑んだ。

 「。わたしも野球は詳しくなか。野球は嫌いです。」