「それでは、」と石田係長が携帯電話を手にし、松平部長に連絡を取ろうとした時、「待たれい!」と本田次長が一喝した。

 本田次長は、携帯電話なぞを使って部長とトークするとはもってのほか、非礼、不敬であるとした上で、こう提案した。

「事が事である。これは松平部長に直接お会いした上で、会議の経過を報告し、裁可を仰がねばならん。」

 本田次長が最後まで執着したのは、ホワイトデーのお返しを巡って企画室内が混乱し、果ては派閥に分かれて争いかねない状況を、松平部長によって決定的なものにしてしまうことだった。もし、この場で松平部長に電話をすれば、部長は一括、分割のいずれかを即断することになるだろう。そうなると、一方の派閥が錦の御旗を手にして企画室は完全に分裂、すなわち長年くすぶってきた課長vs係長の構図が露なものとなってしまうのだ。

 たかだかホワイトデーのお返しではないかと言うこと無かれ。女子に関わる職場の人間関係は微妙であり、そこには上下関係を超えた、いわば雄と雄の世界が存在する。これは、スマートを旨とする企画室においても例外ではないのだ。

 職場の実質上の支配者、本田次長は常に企画室内のパワーバランスに細心の注意を払ってきたが、彼には企画室内にくすぶる火種が、いよいよ発火点に近づいているように思えてならいのであった。
 

因みに、この本田次長の憂慮はこの後に現実のものとなる。キュートな派遣女子社員を
巡って「歓迎会・二次会事変」がぼっ発し、世にいう「GW・テニス合宿五月騒動」へと事態は展開して、企画室内に血の雨が降ることになったのは、このホワイトデーの一件の1ヵ月後のことなのである。

 その話はさておき、本田次長はどのような手を使っても、職場の分裂と部長の引責を避けねばならなかったのだが、彼は心にある策を秘めていた。

 時計の針は午後十時を指そうとしている。話し合いが始まってから概ね四時間が経過し、ようやく部長に会ってお返しの方法の判断を仰ぐ使者の選任に至った。

 「さて、誰が部長に伺うのか、、、」と加藤課長代理が切り出したが、答えは既に出ていた。