薔薇の嘘



「ん…」

瞼に光が透けた。
朝か…

目が開かない。顔全体がパンパンに膨らんでいるのがわかった。喉、がさがさだ。

なんとかして頭に重りがついたように動かない体を起こした。目はやはり半分しか開かない…あ、眼鏡してないから?

それにしても、この、妙に気持ちのいい肌触り、そしてふっかふっか跳ねるような寝心地はなんだ?僕は高級ホテルに泊まったのだろうか。

「おはよ〜翔ちゃん」

「えっ?」

霞む視界の中に、なんか女の人がいる。

これ、夢か。そうとしか考えられない。
だって、何がどうしたら僕の家に女性がいる状況に?

頰を叩いてみるが、目の前の女性のぼんやりとした姿は変わらずそこにあった。
なんなんだ、この状況。

「あっ、そっか。記憶飛んじゃってる?」

その人は僕の顔を覗き込んだ。
かなり至近距離になり、やっとその顔がしっかりと見えた。

「えっと、は、はい…?」

綺麗な顔立ちだった。決して目立つ顔じゃないけど、それぞれのパーツが最良の位置に、そして個々が魅力的に丸みを帯びて美しく造形されている。それを控えめなメイクで際立てていて、ナチュラルな可愛らしさが良く魅せられている。

「だよねー、あれだけ吐いてたら。
喉痛いでしょう?頭痛も」

「はい…」

ふつうに返事しちゃってるけど…

「はい、お水。ちゃんと全部飲んでね。
あと、私はもうお仕事に行かなくちゃいけないからお暇するね。じゃ、なんかあったらシュウちゃんに言ったらなーんでもやってくれるから」

黒髪ロングのその女性は、レモン色のワンピースを着ていた。華奢な肘に、飴細工のように光る、緑の鞄をかけた。

「シュウちゃんって…?」

黒い髪の毛先は、ぱっつんと綺麗な一直線に揃えられていて、その線が扇のようにさらさらと踊る。

「最高の色男だよ。ちょっと性格はひねくれてるかもだけど。でも、捨て猫みたいに転がってた君を拾ってきたお節介でもある」

いじらしくニヤリと笑った顔は、子供のように無邪気でありながら、妖艶さを醸し出していた。まだ20代前半くらいに見えるが、その若々しい見た目でこれほどのセクシーさを持ち合わせていることが常人ではないことをうかがわせる。

「あの、あなたは」

その人は柔らかいレモン色のワンピースを躍らせながら言った。

「今日から私は君のお姉さん。お姉ちゃんって呼んで」

「お、お姉ちゃん?ですか?」

「かーわいい」

「そうじゃなくて、お名前…」

「あー、もう時間だ。早く行かないとオーナーに怒られちゃう。あの人ほんと短気なんだよね。仕事できるし気前いいんだけど、そこが唯一の欠点なの。たしかに人生は短い、って言うけど、だからこそのんびり生きたいって、そう思わない?ねぇ」

僕の姉と名乗ったその人は、僕の頬をツンとつついた。

「そういうわけだから」

その人は僕の頰に軽くキスをした。

「またね。翔ちゃん」

そう言って、颯爽と部屋を出て行った。

なぜ僕の名前を…

「翔太だし」

唇が触れた頬に手を当てた。



…何がどうして、こうなった?

あと、今気づいたけど、ここ僕の家じゃない。

まず、状況を整理しよう。
昨日は金曜で、残業して帰って、地下鉄乗って…駅に着くまでは記憶がある。そしてそこでビールを買って…

酔いつぶれたのか…
たった一缶で?

「眼鏡…」

眼鏡、どこに消えた?
ここは多分あの女の人の家で、僕は多分保護された形なんだろう。そしてシュウとかいう人も…?

でも、わざわざ見知らぬ酔っ払いを家に運び込むような親切な人がいるだろうか?それに、それは親切というか、ちょっとやり過ぎではないか。

「あーもう、それより眼鏡!」

他人の家の中で何かを探すのは至難の技だ。
いつのまにか服も部屋着に着替えさせられていた。

仕方ない、部屋を漁るのは気がひけるけど、眼鏡がないと生きていけないし。

ベッドから起きて部屋を見渡す。

結構…いや、相当いい部屋だ。
有り余るほど広いというほどでもないけれど、一人で住むとしたら寂しくも感じるくらいには広い。

床は真っ白なフローリング。
ツヤツヤして、鏡みたいに僕の姿が映る。
裸足で歩いていると、汚れをつけてしまいそうで恐れ多い。でも、なんかこの感触病みつきになる。

黒とブラウンのシックな部屋だった。
あの可愛らしく若い女性が住むには、少し殺風景で可愛げがないと感じる。
やはり、シュウという人がここの持ち主だろうか。

あたりを見回していると、カーテンが、壁のように一面を覆っているのに気がついた、
この向こうに何が見えるのか、どうしても気になってしまった。

人間というものは、隠されたものは見たくなる。言うなと言われた秘密は口にしたくなる。するなと禁止された行為は狂ったようにしたくなってしまう。

そこで手を止めておけば良かったのだろう。そうすれば何も知らなかったはずだ。
少なくとも、最悪の結果には至らなかっただろう。

普段僕は、危険なことには手を出さない。
タバコはにおいが嫌いだし体に悪いのでそもそも吸いたくはないが手を出さないと決めているし、酒も昨日のように外で一杯引っ掛けるなんてことは稀だ。

昨日は無理が祟ったんだろう。普段飲まないのに、ストレスに背中を押された。

でも、そんな状況でなければ、僕は平常の状態を変えるようなことを好まない。できれば、何も変わらない日々が平穏に続けばいいとさえ願っている。

でも、この時の僕は違っていた。

きっと、あの男の罠にまんまとすっぽり嵌められたのだ。そうでなければ、この時僕はすぐにでもこの居心地の悪いほど整った部屋を飛び出して、家に帰っていただろう。

この時、小さな好奇心さえ芽生えなければ。

真っ黒なカーテンの、ぴっしり折り目がついた布に手をかけた。そして、好奇心に任せて
両手でわっとカーテンを開けた。

「うわ…」

そこには綺麗な一面の窓があって、その奥には東京湾が広がっていた。

朝の爽やかな晴空と、水平線に浮かぶビルの島。それは眺める分にはとても優雅に見える。この窓を通せば、そこで働く人々のため息すら輝いているように見える。