「ただ今戻りました」

「お帰りなさい、凪」

その日、凪が支倉の事務所からマンションに帰ったのは夜の11時を回った頃だった。
玄関先まで迎えに出てきた瀬里は、肩には付かないくらいの柔らかそうな髪を揺らして凪に微笑む。消耗した一日の疲れさえ、じわりと緩む瞬間だ。

黒のコートを脱ぎながらリビングの扉を開いた凪は、部屋中に漂う甘い洋菓子の匂いに気付き、ふとキッチンに視線を向けた。正体の見当はついていたが、そのものは見当たらない。
ダイニングテーブルの上にはローストチキン、生春巻き、サーモンとマグロのカルパッチョなどが彩りよく盛り付けされて並び、目を細めた凪に瀬里がはにかんだように言う。

「メインはビーフシチューなの。凪は夜はあんまり食べないから、重くないのを考えたんだけど」

「全部、作ったのか?」

瀬里だって今日は仕事だったのだから、帰って来て休む間もなく取りかかったのだろう。その気持ちが嬉しいというより、申し訳なさの方が先に立つ。
凪は目の前の瀬里を掴まえて、腕の中に閉じ込めた。

「・・・着替えてくる」

「うん」

どちらからともなくキスを交わし、凪はまだ離しがたいのを抑えて瀬里を逃がす。

三年前には想像もしていなかった充足感に満ちた日々。これが幸せというものなのかと、惑うくらいに自分の身には過ぎる。

凪は満たされながら、浸りきれない自分もどこか分かっていた。