ViolenceにNeglect


 私はなにを間違えたんだろうか。
 生まれる家?生まれる国?見た目?
 分からないから真っ暗なままなんだ。


 * * *


「いたい…」
 人差し指の先から流れる鮮血。
 ズクンズクンと指先が脈打つ。
 原因は、行方不明だった現代文の教科書に挟まっていた、小さなカッターの刃だった。
 明らかに意図的なものだろう。それに教科書やノート、体操着が失くなることなんていつものことだった。
 後方からはぼそぼそと呟く声が聞こえる。
「チッ…指先だけかよ」
 悪意に充ちた声には慣れっこだ。
 カバンから例のごとく絆創膏を取り出し患部に貼る。
 これが私の高校生活。

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「ただいま」
 蚊の鳴くような声で帰宅を告げる。
 どこからも「おかえり」という返事はない。聞こえるのはテレビの音と母の笑い声だけだ。
 リビングへの扉を開けると、母はソファーに座っていた。チカチカと場面が変わるテレビの前で、アハハハと豪快に笑っている。
 私にはどんな番組なのか分からない。そこに出演している芸能人も分からない。最近テレビを見たのはいつだろうか。そもそも私に見せてもらえる権利はないらしい。
 私はそのまま真っ直ぐ自分の部屋に向かおうとした。
 その気配に母がこちらに声を投げかける。
「あんたの分のご飯代そこに置いてあるから、いつも通り勝手に食べてて」
 そう言いながら、私には目もくれずテレビを見続ける。右手の親指だけは、私の目の前にあるテーブルの方向を指さしていた。
 テーブルの上には千円札が1枚。
「…はい」
 そう答えた私の返事は求めていないようだった。

 千円札を片手に自分の部屋に入る。
 何も無い質素な部屋。
 どこからもらったのかも分からない、おさがりの学習机。その上に散らかる、ぼろぼろになった教科書、ノートに文房具。
 部屋の隅には、成長した体には小さく感じる布団が置いてある。
 学習机の椅子に座り、いつものように日記を綴る。

『今日も学校でいつものメンバーにやられた。でも人差し指が切れたくらいで済んだ。もし、また物を隠されたり壊されたりしたら、お母さんに怒られる。お母さんに殴られるのだけは嫌だ。次失くしたら金属バットで殴られるどころじゃない。怖いよ。この前に殴られた背中もまだ少しズキズキする。きっと寝れば治るよね。大丈夫、大丈夫』

 私がなぜこんな目に遭わなければならないのか。日記を書いていくうちに涙が込み上げてきた。
 しかし理由は単純明快なのだ。私の見た目が他人と逸脱しているから。

 * * *
 
 母は常に女として生きる人だ、今も変わらない。だから一夜限りの相手なんて指がいくつあっても足りない。
 あるとき、その相手がロシア人だった。母自身はあまり覚えていないらしいが、いつものように一夜を共にしたという。
 そしてその数ヶ月後、妊娠が発覚した。相手が誰かなんて分かったものではなかった。
 生まれてきた我が子を見た母は驚いた。肌の色も、髪の色も、目の色も色素が薄かったのだ。
 母は大いに混乱した。自分の腹の中から、こんな見た目をした赤子が生まれてくるなんて、想像もしていなかっただろうから。

 * * *

 これが私の生い立ちである。
 母が友人に話していたところを盗み聞きしたものだから、真実は私には分からない。
 その後、現実を受け止めきれなかった母は、物心着くまでは最低限度の育児をしてくれた。それも世間体や周りの目を気にしてだったが。
 しかし、いつ頃からだったろうか、母が育児を放棄し始めた。私は一人でいることが多くなっていた。母に甘えたい時期を一人で乗りこえた。
 『|愛<<ちか>>』という名前が憎たらしい。
 愛してなんてなんていないくせに。
 そして小学校に通うようになると、周りと自分の見た目が違うことを知った。
 化け物だといじめられた。
 お下がりや汚れた服をよく着ていたから、バイ菌ともからかわれた。
 母に助けてもらえることは無く、当たり前のように父もいない。
 教師は、表面的な注意しかせず、まるで注意をしたから自分は責任を果たした気になっているようだった。
 幼い心にはそんな日々がつらかった。でもただ生きるしかなかった。
 中学生や高校生になってからも状況は変わらず、むしろ陰湿化していったような気がした。
 いじめる側は反応を見せるとおもしろがると学んだ。とにかく、無感情のふりをした。
 家でも、最近では母からひどく殴られることは少なくなっていった。母との関わり方を身につけていったからだ。そのかわり、たまに怒らせると容赦ない。
 どこにいても私はロボットのように感情を殺した。できる限りの穏やかな日々が送れるように。
 それでも私は悔しいくらいに人間で、苦痛を感じざるを得なかった。
 それをぶつける場所は日記しかない。
 こんな毎日なら死んでしまおうとも考えた。その方が楽だと。
 けれども私は弱い人間で、そんな勇気なんてなかった。
 ただそんな毎日を機械的に過ごす。
 これが運命だというのなら、くそくらえだ。


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 …………。
 どうやら机に突っ伏したまま、眠ってしまっていたようだった。電気もつけていない部屋では辺りが真っ暗だ。
 電気のスイッチを入れて時計を見る。
 時刻は一九時一〇分。高鳴るお腹の音で自分の空腹を知る。そういえば夕飯がまだだった。そろそろ夕飯を食べに行こうか。
 そう思い、のそりと立ち上がったときだった。
 忘れていたことを思い出した。
 明日までに学校に納めなければならないお金があったことを。
 どうしてこの話が出てきたのが前日になってしまったのか。
 というのも、学校にお金を支払うための封筒や、それについて詳しく記載されたプリントがあったのだが、それを例のいじめっ子たちに隠されていたからだ。
 それらが手元になくとも予め母に話せばいいだろう、と思うかもしれない。だが、学校からという証拠がないと、私が母にお金を無心したと勘違いされ、殴られてしまうのだ。
 前日にお金の話をするだけで、怒られるのは確定だ。どうするのが一番安全なのか、頭の中で一生懸命に考えた。
 母の様子を伺い見ると、電話中のようで、しかも機嫌はよろしくない。
 こういうときは時間を空けて、機嫌が落ち着いた頃に話を切り出すのがベストだろう。
 腹が減っては戦もできぬと言う。先に夕食でも食べてくるとしよう。
 一抹の不安を残したまま、静かに家を出た。

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 近所の小さな食堂で食事を済ませて帰宅する。
 時刻はちょうど八時。
 きっと、さっきよりも機嫌は良くなっているだろうと思っていた。
 ドアを開けると、あからさまに機嫌の悪そうな母の独り言が聴こえてくる。荒々しい言葉遣いで、おそらく先程の電話相手に対する不満をこぼしていた。
 私は読みを間違えてしまった。余計に怒られるに違いない。
 でも、もうこれ以上、話を引き伸ばしにする方が自分の身が危ういと判断した。
 自分の部屋に封筒とプリントを取りに戻る。
 ドクドクと心拍数が速まるのが分かる。
 深く深呼吸をして、声をかけた。
「お母さん、話があるんですけど」
 乱れた髪の隙間からギロリとこちらを睨みつける。
「なに?私が今イラついてるのが見て分からないの?あんたまで私をイラつかせるつもり?」
 正直、ものすごく怖い。けれど、声をかけてしまった以上、話を続けるしかない。
「こんな時間にごめんなさい。学校からのお金の件で話があります。明日までに、このお金を払わなくちゃいけなくて…」
 瞬間、母は奇声を上げた。
「はぁーーー?なんで?なんでこんな時間になって言うの?明日までとかふざけんじゃないよ!あははっ。ほんっとにムカつく。あんたやっぱ私もイラつかせる天才なんじゃない?」
 怒りながらも母は笑っている。
 このときの母はやばい。手に負えない。それ相応の覚悟をした。
 母に胸ぐらを掴まれる。
 右から左へ、左から右へと、往復ビンタをかまされる。
「あんたはさぁ、何回言えば分かるの?」
 次第に手の形はパーからグーへと変わっていった。殴る場所も、顔から身体へと範囲を広げた。
 痛い。痛い。痛い。
 背中を床に打ち付けたとき、前に金属バットで殴られたときの傷が痛んだ。
 耐えるために、今までで一番最悪のときを思い出して、それよりはマシだと思い込むことした。
 母になにか罵倒されている。
 朦朧とする意識の中で、「お前なんか死んじゃえばいいのに」と聞こえた気がした。
 すると、雨のように降り続いていた拳が止んだ。
 母は呟く。
「そうだよ、あんたが死ねばいいんだよ」
 思考がまとまらない脳では、すぐには理解できなかった 。
 私が、死ぬ?
 意識がぼーっとする私の髪を掴み、母はベランダに引っ張った。おぼつかない足取りで、よろよろと歩む。
 マンション四階のベランダに、ひんやりとした夜風がそよりと吹き抜ける。
 この風の冷たさが私の思考を取り戻させた。
「お母さん待ってください!やめてください!」
 必死に抵抗する。しかし母も私をここから落とそうと、足を持ち上げようとしている。
「早く死んでよぉ!あんたが死んだとこで悲しむ人なんてだーれもいないんだから、心置き無く死ねるでしょ?」
 何度も殴られたせいで体力はもうない。抵抗し続ける気力も尽きそうだった。
 最後の力を振り絞り、振り切ろうとした。その刹那、ベランダの手すりに背中が勢いよくぶつけてしまった。
 痛みが体中に広がり、力が抜けていった。
 嗚呼、もうダメだ。私は死ぬんだ。
 そして母は、一瞬抵抗しなくなった私を突き落とした。
 薄れゆく意識と遠のいていく母のシルエット。
 地面までの時間が長く感じた。
 ゆっくり、ゆっくりと落ちていく体感に奇妙な心地だ。
 走馬灯らしきものも見えたが、ろくなものではなかった。
 もうすぐ地面だ。いっそ受け入れて目を閉じてしまおう。
 『ドスン』
 後頭部から体全体に走る鈍い痛みと共に私の意識は途切れた。