口を塞ぐためだけのキスだと思われたくなかったあなたは、もう一度、今度は長めのキスをしました。

彼女はいよいよ夢見心地の表情となり、唇が離れると熱っぽい視線をあなたに向けます。

「碓氷さん……」

その視線はとても扇情的だったので、あなたは気を抜けばこのまま彼女をホテルにでも連れ込んでしまいそうでした。おそらく彼女も、今ならそれを許したと思います。
しかし、あなたは一日歩き疲れた彼女を紳士的に扱いたかったのでしょう。彼女の体を解放し、手だけをそっと握ります。

「ゆっくり休んで。また連絡します」

送り狼にならず最後まで王子様だったあなたに、彼女はすっかり骨抜きになりました。
ふやけるような笑顔で頷いて、バックをふたつ持って車を降りると、パタパタと手を振りながら離れていきます。

あなたはしばらく余韻に浸っていました。
そのうち一分ほど経ちましたが、マンションへ向かったはずの彼女を見失い、あなたは視線をあちこち泳がせます。
すると、駐車スペースのストッパーが、カチンと音を立てました。

あなたは不審に思い、精算機に目を向けます。するとそこには彼女がいて、隠れるように精算していたのです。

「藍川さんっ……」

「また、会ってくださいね!」

彼女は最後にそう叫ぶと、いたずらを終えた子供のように、タッタッタッと軽い足取りでマンションのエントランスへ入っていきました。
あなたは口元を押さえて、熱っぽい視線でそれを追います。あなたこそ骨抜きでした。

あなたは彼女のことが好きになっていました。
これが、あなたと彼女が出会った日の出来事です。