誰かに好きって伝えるのは怖い。

同じ思いが返って来ない未来を思うと、いつだって躊躇する。

手を伸ばさなければ、届かない事実を知る事も永遠にない。

だから、もういいや。

南野さんに失恋した私は、あの時そう、思った。

だけど、今は。



「こんなとこでなにしてるんだ?」

藤沢さんと別れて、涙目と赤い顔をどうにかしようと、人気のない会議室フロアの廊下を歩いていると、後ろから声が掛かった。

振り向くと、書類を手にした柿谷さんが、こちらに歩いて来る所だった。

ちょうど会議が終わった所らしく、大勢の営業マンが廊下に流れ出している。

同じ背格好の女子なんて幾らでもいるだろうに、後ろ姿で私だと気付いてくれた彼に、さっきの余韻もあって、胸がきゅんとした。

「ちょ、ちょっと散歩・・」

「俺に会いに来たわけじゃないの?」

いや、そもそもあなたのスケジュールなんて知りませんから。

outlookの予定表を見れば、大体の行動予定が把握できるのだろうけれど、営業は基本外行動が基本だし、その合間を縫うように会議が組み込まれるので、調べようという気さえ起らなかった。

だから、それをそのまま言ってやればいい筈なのに、顔を見たら言えなくて黙り込んでしまう。

動け、動いて、口!!!

必死に心の中で念じるけれどそれでも駄目だ。

売り言葉に買い言葉で言い返すのが常の私が黙り込んだ事を訝しんだ彼が、距離を縮めて来る。

「・・なに・・・泣いた?」

「・・・っちが!!」

慌てて頬を押さえて視線から逃げるように俯く。

頭上でため息が聞こえると同時に、柿谷さんの指先が、頬を覆った私の手の隙間に触れた。

輪郭を辿る様にするりと撫でられて、きゅっと目を閉じて後ずさる。

この人の触り方はイチイチ心臓に物凄く悪い。

「ああ・・そっか。静かな空き会議室に呼び出されて、告白でもされた?」

静かな問いかけに、思わずぱっと顔を上げてしまう。

射貫くように向けられた眼差しに込められているのは強い意志。

真正面から受けて立つなんて絶対無理で、逸らしたら、それが答えだと見抜かれた。

「ふーん・・そう」

さして興味無さそうに言われて、それがパフォーマンスであっても、そうでなくても、胸がずしんと重たくなる。

ちゃんとこちらを見ていてくれているようで、けれどその真意が少しも見えない彼の気持ちを、どうやったら繋いでおけるんだろう?

手を伸ばしたら、やっぱり要らないって言われてしまうかもしれない。

私の気持ちだって、彼の気持ちだって、箱に入れて閉じ込めておけるわけじゃない。

それでも、好きだと言いたくて、好きになって欲しいと願ってしまうのが恋だ。

ずっと続いて欲しい、続くって、信じたい、と思えるのが、きっと恋だ。

また傷つくかもしれない、また泣くかもしれない。

喧嘩だってきっとするし、だけど、同じ位、好きだときっと思うんだろう。

気付いたら、震える唇が言葉を紡いでいた。

「す、好きな・・人が・・・いるって、言いました・・から!」

絞り出すように告げた事実。

怖くて柿谷さんの表情を確かめる事なんて出来ない。

もう、言ってしまったから、それでいい。

これ以上微妙な空気になる前に、戻ってしまおう。

そう思って踵を返そうとした私の手首を、柿谷さんが慌てたように握った。

「なんで?」

聞こえて来たのは、僅かに掠れた呆れたような声。

「・・え?」

顰め面の頬が僅かに赤い事が見て取れた瞬間、ぶわっと自分の体温が引き上げられた。

私からの告白ももどきで、彼がこんなに動揺するなんて思ってもみなかった。

「この状況でなんで逃げんの?」

捕まえた手首をぐいと引っ張って、柿谷さんが、真横にある会議室のドアを押し開ける。

背中で押さえたままのドアの内側へ、私を引っ張り込むと、そのままドアを閉じた。

午後の日差しが差し込む会議室は、明かりを消したままでも十分明るい。

私の顔がさっき以上に赤くなっている事も、しっかり見られている筈だ。

「もっかい言って」

「なんで!?い、嫌です・・」

「俺が聞きたいから、言って?・・お願い」

手首を握る指の力が緩くなって、そっと解けた事に、僅かな安堵を覚えたのも束の間。

反対の手がしっかり私の腰を抱き寄せていた。

「・・わ、私・・こんなに誰かに振り回されたの初めてなんです!

柿谷さんの本心がちっとも分んないし、不安になるし、でも素直に言えないし!

だ、だから・・責任取って下さい!好きですっ・・ん・・んぅ・・・っん」

勢い任せの告白の直後、降りて来た指先に顎を掬い上げられて、気付けば唇が重なっていた。

啄んで離れた唇が、またすぐ重なって上唇を吸われる。

どうしていいのか分からなくて、肩を竦めたら、唇の真ん中をぺろりと舐められた。

「ゃ・・っん・・」

驚いて開いた隙間から、柿谷さんの舌が入り込んで来る。

肉厚でざらついた自分以外の感触が口内をぐるりと巡る感覚に、腰のあたりがぞくぞくと疼いた。

息苦しさと、絡まった舌が擦れ合う度に生まれる痺れるような感覚に溺れそうになる。

「・・っん・・っ」

時折聞こえて来るリップ音と、自分のものとは思えない声に、心拍数は最高潮に達する。

愛用のピンヒールで踏ん張るも、すぐに限界がやって来た。

けれど、そんな私の反応を予測していたのか、柿谷さんの腕がしっかりと身体を支えてくれた。

細身だけれど、ちゃんとした逞しい男の人の腕だ。

歯列を舐めて、上顎を擽った後、名残惜しそうに唇が離れた。

そのまま涙目の私を甘やかすように、額にキスが落とされる。

唇をくっつけたまま聞こえて来たのは囁き声の告白。

「・・好きだよ」

「じゅ、順番・・ぎゃ、逆」

「ああ、そっか。依子は初めてだったもんな。ごめん、じゃあもう一回やり直そ」

言うが早いかちゅっと唇を啄まれる。

「どう?満足した?」

「・・・」

視線を彷徨わせて、こくんと頷く。

「ん、じゃあ、次は俺の事満足させてな。好きだよ」

「あ・・え・・っ」

下唇を食まれて、びくりを震えた私の肩を宥めるように大きな手が撫でて、ぐっと背中を引き寄せられる。

「ちゃんと、オトナのキス、しよう」

甘ったるい誘惑に反論する暇もなく、もう一度唇が重なった。

迷う私の指先を、キスの合間に綺麗に絡め取って、柿谷さんが眦を柔らかくして笑う。

ああ、この人の事が好きだ、そう思った。