「それが、今の僕」

 目の前でじっと話を聴く少女に対し、僕は全てを打ち明けた。
 差し伸べられた手を振り払ってきた僕が、初めて話してもいいと思えた相手。
 最初は本当に嫌だった。
 明るく振舞う彼女の姿はこれまで僕に救いの手を差し伸べてきた人たちと酷似していたから。
 僕の目の前に現れた時だって、すぐに追い出すつもりだった。
 けれど、彼女は他の人たちとは違った。
 一生誰にも気付かれない人生など寂しすぎる、そう言って僕に訴えてきた。
 ……僕は寂しいという言葉に弱い。誰よりもわかってしまうから、その気持ちが。
 そのせいで彼女を追い出すことができなかったのだ。
 それに、彼女には悩みがあった。
 暖かい家庭を持ちながらも、挫折した自分と必死に戦っていた。
 話を聞くうちに、彼女は他の人たちとは違うと思うようになっていった。
 だから僕はこうして彼女に全てを打ち明けることができたのだろう。

「亮くん……」

 彼女は目に大粒の涙をため、震えた声で僕の名を呼ぶ。今にも泣き出しそうな表情だ。
 それだけで、本気で僕のことを想ってくれているのがわかる。
 この人はちゃんと僕を理解してくれるんだ。
 だけど泣くのは少し大げさだと思う。
 そんな表情をされると、なんというか……僕まで泣きそうになってくるから。

「落ち着いて、別に泣くようなことじゃないから」

 そう言って彼女をなだめようとする僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
 どうしてだろう。
 ただ話をしただけなのに、打ち明けただけなのに、なのに、凄く胸が苦しい。
 涙目で僕を見つめる少女の顔を見ると、心配してくれているのだとわかって目が熱くなってくる。
 その感覚が自分でもよくわからなくて、戸惑ってしまう。

「お、おかしいな……なんでだろう、苦しいような――――」

「亮くん」

 言い終わる前に、彼女は僕の名を呼んだ。
 そして、やや強引に僕の体を抱き寄せた。そのまま僕の顔を胸元に押し付けてくる。ただでさえ苦しいというのに、余計に息苦しくなってしまう。
 確か物には触れないはずじゃ……。
 一瞬、そんな疑問が頭によぎったけれど、すぐにどうでもよくなった。
 彼女は優しく僕を抱きしめ、そして耳元で囁く。

「今まで……よく頑張ったね」

 それを聞いた瞬間、全身が熱くなってくる。
 彼女はそっと僕の頭に触れ、ゆっくり僕の頭を撫でる。
 それを皮切りに、どんどん目の奥が熱くなって、思わず瞳から零れ落ちてくる。
 なんでだろう……。おかしい、こんなはずじゃないのに。
 何の変哲もない労いの言葉のはずなのに。
 優しく頭を撫でられただけで、ただ頑張ったねと言われただけで、何故だか涙が止まらない。
 一度溢れてくるとどんどん溢れてきて、止まらなくて、どうしたらいいかわからなくなる。

「頑張った……。本当に、ずっと頑張った……」

「うん……わかってるよ」

 ぎゅっと、僕を抱き寄せたまま、彼女は反対の手でずっと僕の頭を撫で続ける。
 そうやって優しい言葉をかけられるたびに、苦しかった想いが全部外に出ていくような気がして、とめどなく涙が溢れてくる。

「ずっと寂しかった、苦しかった、もう全部だめかと思った……苦しくて苦しくて、どうしようもなかったんだ……」

「大丈夫、私がいるよ」

 もう、感情を抑えられなかった。
 寂しい、悲しい、苦しい、つらい。ごちゃ混ぜになったそれらの感情が渦を巻き、言葉として彼女の胸に吐き出されていく。
 頭を撫でる優しくて温かな感触を感じながら、みっともなく泣き喚く。
 嗚咽を抑えられず、しかし抑えるつもりもなく、ただ涙を流して小柄な少女にしがみつく。
 服を汚すまいと鼻水をすすり、吐き出した感情のせいで息切れを起こす。
 それでも、彼女はずっと、優しく聞き続けてくれた。
 言葉にもならない感情の爆発を、優しく受け止めてくれた。
 今まで頑張ってきた全てが、手のかからない子でいるために押し込めてきた寂しさが、彼女に優しく撫でられるだけで満たされていく。
 次第に、熱かった瞼が重くなってくる。
 数年ぶりに感じる人の温もりに、その優しさに、今まで絶えず張り詰めていた緊張の糸がほぐされていくのがわかった。
 こんなに安心できるのは、いつぶりだろうか。
 少しだけ、休んでしまおう。
 全身に優しい温もりを受けながら、僕は静かに目を閉じた。

 ***

 目が覚めると、こちらを覗き込んでいる少女と目が合った。

「あ、起きた?」

「ん……」

 どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
 僕は静かに起き上がり、外を見やる。既に日は落ちており、墨ベタで塗りつぶしたような黒い空が無限に広がっていた。
 どうやら、随分と長い間眠っていたようだ。
 締め切り間際だというのに呑気なことをしたものだ。
 けれど、不思議と焦りはない。それどころか余裕すら感じる。
 今まで感じたことがないほどに胸が軽い。慢性的な頭痛も今は感じない。
 ずっと体の中で蠢いていた何かが根こそぎ吐き出されたような、そんな清々しさがある。
 そして、思い出した。
 目の前の少女にみっともなく泣きついて、顔中涙と鼻水だらけにした挙句眠りについたということを。恥ずかしい。
 ……穴があったら入りたいとはこのことだ。
 何食わぬ顔でこちらを伺っている少女からあわてて目を逸らす。このまま直視していると心臓がどうにかなってしまいそうだったから。

「物には触れないんじゃなかった?」

 恥ずかしがっていることを気付かれないように、かつ何も気にしていないような素振りを見せつつ問を投げる。

「な、何となくあの時は触れるような気がしたからかな~」

 彼女は露骨に焦りながらそう答えた。どう見ても挙動不審だ。
 時々、胡散臭いんだよなぁ。最初に会った時もそうだし、今もそうだ。
 何となく僕にだけ姿が見えるような気がしたとか、何となく触れるような気がしたとか、違和感だらけだ。
 間違いなく彼女は何かを隠している。
 とはいえ、悪意はまるで感じられないから別段気にもしていないけれど。
 ちょっと励ますだけで泣いたり、僕の話を聴いて抱きついてくるような人間が悪人とはとても思えないし。
 きっと幽霊にも色々と事情があるのだろう。
 だから突っ込む気は特にない。
 どうやら僕は自分が思っている以上に彼女のことを信用しているようだ。

「そうなんだ」

 そう言って彼女の嘘に納得したような素振りを見せると、彼女は心の底から安堵したような表情になる。本当にわかりやすい。
 そういう間抜けな部分があるからこそ信用できるのかもしれない。

「……さて、そろそろ描くか」

 僕はゆっくりと立ちあがり、椅子に座った。
 気分を入れ替えよう。
 締め切りは明後日。ほとんど完成しているとはいえ、出版社あてに配送する手間を考えると余裕があるとは言えない。
 でも、その前にひとつだけ――いや、ふたつほど彼女に言いたいことがある。
 緊張するし本当ならば言いたくはないのだけど、だからこそ言葉にしなければならないこともある。

「ありがとう」

 それがひとつ。そして、

「僕、頑張ってみる。お父さんとお母さんがもう一度仲良くできるように。漫画を描くだけじゃなくて、もっといろんな方法で」

 決意を口にした。それがふたつ目。
 今日、ついに離婚すると母に告げられた。
 もはや家族を繋ぎとめるために漫画を描くなどと悠長なことを言っていられる場合ではない。
 僕に残された時間はもうほとんどないのだ。
 それに、薄々気付いていた。
 僕が漫画を描くことでしか自分を主張できなかったのは、恐れていたからだ。お母さんたちと面と向かって話し合うことを。
 別れてほしくない。またみんなでやり直したい。そう訴える僕に対し、お母さんがどんな反応をするのか、それが怖くて僕は逃げるように漫画を描いていた。
 あの日、リビングの前で扉を開けられずに立ち尽くしていた時から、僕はずっと逃げ腰だったのだ。
 そんな弱気な僕とは今日でお別れしよう。
 僕は絵を描くのが好きだ。漫画家になりたい。だから漫画を描く。
 今はそれでいいんだ。そこに家族を結びつけるのはもうやめることにした。
 家族を繋ぎとめるのは漫画ではなく、僕だ。僕自身がやらなければいけない。
 これは決して揺るがない決意の表明。
 僕は彼女の目をじっと見つめる。

「うん、私もそれがいいと思う。ずっと見守るから、一緒に頑張ろ」

 彼女もまた、まっすぐ僕を見つめる。
 どうしてだろう、彼女になら思ったことを全て話せてしまう。いいことも悪いことも、包み隠さずに。
 彼女がいなければ、きっと僕は今でも逃げ腰のまま漫画を描いていたのだろう。
 本当に不思議な気持ちだ。
 最初は煩わしくて仕方がなかったはずなのに、今は心の底から彼女を頼りにしている自分がいる。

「ありがとう」

 一度や二度では足りないお礼を、僕は言う。
 僕はずっと救いを求めて足掻き続けていた。
 逃げ出したくて、でも逃げられなくて、僕の心は光さえ届かない海の底でずっと苦しんでいた。
 暗くて、冷たくて、息苦しくて、どれだけ足掻いても決して抜け出せない闇の中。そんなどす黒い気持ち悪さがずっと胸の中で渦巻いていた。
 けれど、今は違う。
 すっかり軽く、そして温かくなった胸に手をあて、ようやく気が付いた。
 僕はもう、救われているのだ――――と。

「どういたしまして」

 嬉しそうにはにかむ彼女に、僕も笑みを向ける。
 上手く笑えているだろうか、不審に思われないだろうか。以前の僕なら感じていただろうそんな不安は欠片もなかった。
 だって、彼女なら受け入れてくれるから。下手くそな笑顔も何もかも。
 だから僕は一抹の不安もなく笑うことができる。

「……よし」

 小さく声を発し、自分に気合いを入れる。
 そして僕は、ペンを手に取った。