僕は、ずっと寂しかった。
 目の前にいる幽霊のような少女――佐々木こころに対し、今からそんなことを語るのだと思うと、少しばかり気恥ずかしい。
 それでも、僕は話そうと思う。
 彼女が僕に話してくれたように、僕も勇気を出して自分をさらけ出す。

「全部、話すよ」

 とは言ったものの、何から言葉にしていいのかまるでわからない。
 漫画を描く時は次から次へと言葉が浮かんでくるというのに。
 きっと僕は人と話すことに慣れていないのだと思う。いまいち要点を抑えて説明できる気がしない。
 だから、一から十まで、全てを話す。

「最初は、普通だったんだ」

 そう言って僕は記憶を辿る。遠い過去の記憶。唯一僕が幸せだった頃の記憶を。
 本当に、最初は普通だった。
 お父さんがいて、お母さんがいて、休みの日には家族で遊園地に行ったり水族館に行ったりした。近場の公園でお父さんとキャッチボールをすることもあった。
 ある程度裕福だったおかげで、広い家に住めて、欲しい物はなんでも買ってもらえた。恵まれていたと思う。
 そんな僕が漫画家を目指すようにったきっかけは、公園で彼女が話してくれたのと同じように、褒められたからだった。
 幼稚園が終わりお母さんに手を引かれて帰る途中、僕はその日描いた絵を見せていた。
 お母さんはいつも笑いながら、

「亮は将来漫画家さんになるのね」

 なんて言っていた。
 お母さんは僕が描いた絵を見ていつも喜んでくれた。
 それが嬉しくて、もっと喜ばせたくて、僕はどんどん絵の世界にのめり込んでいく。
 お父さんに至っては額縁を買ってきて僕の絵をリビングに飾っていた。あれは今思い出しても大げさすぎると思う。
 でも、嬉しかった。
 仲のいい両親に愛されて、風邪を引けばお母さんが看病してくれる。たまに怒られたりもするけれど、僕は両親が大好きだった。

「俺たちは運命の出会いをしたんだ」

 それがお父さんの口癖だった。
 休みの日にキャッチボールをしていた時も、そんなことを聞かされた。

「もう何回も聞いたよー」

 聞き飽きた話に耳を抑えたくなりながらも、僕はお父さんのグローブめがけて球を投げる。
 ぱん、とボールがグローブに収まる心地いい音が響き渡ると、耳を抑えなくてよかったなと思い直した。
 お母さんもお父さんも、結婚する前から苗字が同じだったらしい。
 石丸涼子と、石丸涼平。
 中学一年生の頃に出会い、ただ名前が似ているというだけで話すようになった二人。お父さんはそれを運命なんて言っているのだから大げさだ。
 僕の絵を飾った時といい、お父さんはどことなく豪快なイメージがある。
 お母さんもお母さんで、そんなお父さんとの出会いをどこか神聖視している節がある。似たもの同士というか、夫婦揃ってお気楽だった。
 でも、運命だと言うだけあって二人は本当に仲が良かった。
 どんな時も笑いあいながら、僕も交えてみんなで食卓を囲う日々。
 僕は家族が大好きだったし、お父さんもお母さんも僕を愛してくれていた。
 だから、ずっとそんな生活が続くのだと思っていた。



 幸せの終わりは、あまりにも突然のことだった。
 忘れもしない。それは僕が小学校に入ってすぐのこと。
 父が、肺癌で倒れたのだ。
 目の前で血を吐いて倒れるお父さんを、お母さんが泣き叫びながら抱き起こしていたのを今でも鮮明に覚えている。
 お父さんはすぐに入院した。
 それまで賑やかだった石丸家は、あっという間に静まり返った。
 幼かった僕は、癌という病気は絶対に治らないもので、一度かかってしまったら死んでしまうものだと思っていた。
 お父さんが死ぬなんて嫌だ。そんなことを考えて毎日のように泣いていた。
 けれど、不幸中の幸いだったのは、父の癌は病状の割にどこにも転移していなかったこと。
 手術をすれば助かる見込みは十分にある。
 僕もお母さんも、お父さんのことが大好きで、お父さんがいなくなるなんて考えたくもなかった。
 当然、お父さんは手術を受けることになった。
 結果は大成功。僕もお母さんも大喜びして、心の底から安堵した。
 お父さんも、

「お祝いに今度旅行に行こう」

 なんて言って嬉しそうに笑っていた。
 よかった、これでまた幸せな生活を送れるんだ。当時の僕はそんなことを考えていたと思う。
 僕は知らなかった。本当につらいのはそこからだということを。
 闘病中に失った体力と、社会的信用はそう簡単には戻らない。
 退院してすぐに、お父さんは今までの遅れを取り戻すために休日を返上してまで会社に通い詰めるようになった。

「無理する必要はないんじゃない?」

「自分の体が第一だよ」

 毎日のように、お母さんはそんなことを言っていた。
 しかしお父さんが会社を休むことはなかった。きっと僕たちに苦労をかけまいと意地になっていたのだろう。
 無理をし続け、日に日に痩せていくお父さんの姿を僕たちは不安げな眼差しで眺めることしかできなかった。
 やがて、仕事のストレスが限界に達したお父さんは、煙草を吸い始めるようになった。
 軽く嗜む程度だったお酒も自然と量と頻度が増え、いつしかお父さんは家にいる間は常にお酒を飲むようになっていた。
 会社の愚痴を言いながら酒をあおり、酔いつぶれる。
 目が覚めたかと思えば大声を出しながら家中を歩き回り、壁に穴をあけ、訳もわからずお母さんを殴る。
 そうして暴れるだけ暴れた後は寝室で泥のように眠るのだ。
 ショックだった。
 優しくて、それでいて豪快だったお父さんは、全くの別人に変わってしまった。
 運命の出会いをしたのだと、愛おしそうな眼差しを向けていた相手を躊躇なく殴り倒し、悪びれもせず自宅と会社を往復する毎日。

「パパ……落ち着いて……」

 ある日、いつものように暴れる父を僕は制止した。
 日に日に痣が増えていくお母さんを見ていられなくなったのだ。
 酔いが醒めれば、お酒をやめてくれれば、きっと元のお父さんに戻ってくれる。それまでは僕がお母さんを守る。
 そんな決意を胸に、僕は父の前に立ち塞がった。
 子供の力では抑えられないし、怖かったけど、大丈夫だという確証はあった。
 お父さんはどれだけ酔っていても僕を殴ることはなかったのだから。
 身をていしてお母さんを守れば何とかなると思っていた。
 事実、その日は僕もお母さんも殴られることはなかった。
 ……代わりに、殴られていた方がずっとましだったと思わされることになる。

「クソガキが、邪魔しやがって。こんな下手くそな絵描いてる暇があったら酒買ってこい!」

 怒鳴りながら、お父さんは額縁を地面に叩きつける。
 割れたガラスが飛び散ると、お父さんは中に入っていた僕の絵を拾い上げた。
 そして、僕のすぐ目の前で、それを破り捨てた。
 ……それまで、心のどこかでまだ期待していた自分がいた。
 仕事が落ち着いて、お酒を飲む機会が減ればお父さんは元に戻るのだと。
 酔っているから暴れているだけで、本当のお父さんは僕たち家族のことを大切にしてくれるんだって。
 けれど、破り捨てられた絵を目の当たりにしたとき、僕は悟った。
 僕の知っている優しいお父さんは、もう我が家にはいないのだと。



 父が寝た後、散らかった家を僕とお母さんは暗い表情で片づける。
 ガラス片を箒で集め、壁に空いた穴はポスターを貼って誤魔化した。

「ごめんね亮。お母さんがもっとしっかりしてれば……」

「ううん、大丈夫。お父さんだって仕事が落ち着けばまた優しくなるよ」

 思ってもいないことを言いながら僕は笑顔を作る。
 本当はすぐにでも泣きだしたかった。
 破り捨てられた絵を見るたびに、使い物にならなくなった額縁を見るたびに、僕の心は苦しみで満たされていく。
 それでも涙は流さなかった。お母さんに心配をかけたくはなかったから。

「亮は優しいね、ありがとう」

 お母さんは傷だらけの腕で僕を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。
 その震える手に包まれたとき、僕は誓った。
 僕だけは絶対お父さんのようにはならない、と。
 そのためには手のかからない子にならなければいけない。
 少しでもお母さんの負担を減らすんだ。
 それからはもっと絵を描く頻度が増えた。
 絵を描けばお母さんが喜んでくれるし、お父さんに絵を破り捨てられたことを気にしていないというアピールにもなったから。
 当然気にしていないわけがなく、絵を描くたびにつらくなる。
 つらいはずなのに、それでも絵を嫌いにならなかったのはお母さんのおかげだ。
 喜んでくれるし、褒めてくれる。だから絵を描くのは好きだ。
 勉強も頑張った。算数は凄く苦手だったけど、毎日遅くまで勉強をして、テストでは毎回百点を取っていた。
 学校から帰り、満点の答案用紙とその日描いた絵を見せる。僕にとってそれだけがお母さんを元気付ける手段だった。

「亮は凄いね」

 褒められるのは嬉しかった。
 お母さんはまるで自分のことのように喜んでくれて、そのたびに優しく僕の頭を撫でてくれる。
 僕はそれが嬉しくて、ますます頑張るようになった。
 ……それが、お母さんが僕を気遣ってくれていただけとも知らずに。