「あ、山神さん、こんにちは」
「…ああ」
「手、本当によくなったんですね!よかった!」
彼の左手に巻かれていた、痛々しい包帯はなくなっていた。彼は私の前で手をひらひらさせる。
「…ああ。後遺症もないしきれいに治っ、…!」
「本当ですね、きれいな手…。あっ」
私はそのひらひらをそっと掴んで、眺めた。指がものすごく長くて綺麗…と思ったところで、彼の顔がちょっと引きつったのを見てハッと我に返る。
「ご、ごめんなさい」
(しまった、男の人の手なのに、何の断りもなく触っちゃった)
「……。勝手に触るな。まだ痛みが残ってたらどうするつもりだったんだ」
彼はむすっとした顔で席についた。けれど、心なしかその顔がちょっと赤くなっている気がする。意外とシャイなのかもしれない。
「何、頼みますか?」
私は慌てて、持っていたメニューを差し出した。
「俺はアメリカンにする。あんたはもう注文した?」
「せ、せっかくなので私もちゃんとしたコーヒーを飲んでみようと思うんですけど、何か初心者向けにお勧めのやつってありますか?種類とか苦みとか言われてもわからなくて」
「…。ひとまずレギュラーブレンドにしてみたら?万人受けする味になってると思うけど」
めんどくさそうに言われて私はちょっとしょんぼりした。
「そ、そうですよね…。じゃあそれにします」
彼は店員を呼んで、私の分まで注文してくれた。
なんとなく気まずくなって黙っていると、
「上級者向けのすごい苦いのとか酸味の強いのは、普通のブレンドとして出てくることはないと思うから。レギュラーブレンド飲んでみて、苦すぎるとか、香りがキツいとか、そういうのがあれば次に来た時に店員に“もっと軽いのがいい”とか言ってみるといいよ。ブレンドって店によって味が全然違うからどれがいいとか一概に言えないし、そもそもあんたの好みなんか知らないし」
「あ、ありがとうございます…」
(なんだ、一応考えてはくれたのね)
確かに、私の好みを知らないのにお勧めを聞かれても答えられるはずがない。
ジュースやお酒の類とは勝手が違うんだし、バカな質問をしてしまった…と私は小さく反省した。
「山神さんの趣味の一つはコーヒーだと思っておいていいですか?彼女のふりをするわけですから、ある程度お互いのこと知っておかないといけないですよね?」と、私はさっそく本題の話を振る。
「ああ、そうだな。今日ざっくりと二人の設定を決めてしまおう。それをもとに俺は母に連絡をして日程を決めておく」
「例えば、二人が出会ったきっかけとか、付き合ってどのくらいとか、よく行くデートの場所とか…?」
「ああ。変に凝った設定にすると墓穴を掘りそうだから無難に…。出会いのきっかけは友達の紹介…とか」
「出会いのきっかけは私が自転車で突っ込んできた、で良いのでは?多少真実もまじえたほうが話しやすいのではないでしょうか」
「…それは一理あるな。いきなり突っ込んでこられて、指の骨にひびが入って、最初は“なんだこの女は”と思った…とかな。この部分については演技の必要がなさそうだ」
嫌みのたっぷりこもった返答に、「ううっ!その節は本当にすいませんでした!」と私は謝るしかなかった。
