「この件で私にお礼なんて考えなくていいんだよ」
束の間の沈黙だけで新発田社長は私の考えに気が付いてしまった。

「いえ、あの、お礼はさせていただかないと」
「いや、どちらかと言うと私が灯里ちゃんに何かしてあげたいとずっと思ってきたからね。ちょうどいい機会だから、これはあの時の渓流釣りのお礼ってことで良しとしてくれないか」

「渓流釣りのーーですか?」
「そう、私と初めて会った時のね」

初めて会った時、3年ほど前になるだろうか。

ーーー私は幼いころから祖父や父親に連れられて渓流釣りに行っていた。上京してからはやっていなかったけれど、長野に戻ってから久しぶりにやりたくなって一人で川に向かった時のことだった。

釣り糸を垂らして静かな時を楽しんでいると、50才くらいの男性が一人でやってきて私よりも少し上流で釣りを始めたのが目に入った。
わざわざ声を掛ける距離でもなかったので、目礼しただけでお互いにひとりを楽しんでいた。

ところが、大きな水音がして目を向けると、あの男性が横向きに近い格好で転んでいてなかなか起き上がらずにいる。
思わず駆け寄ってみると、男性は石に足を取られて転倒し左足首と左手首をひねってしまったのだと言う。

肩を貸して補助をしながら立ち上がらせて川から上がり、座れるような河原まで移動し、私は自分の荷物から応急処置セットを取り出した。
腫れはさほどではなかったけれど痛みは強いらしい。
きっちりテーピングで固定して上から持ってきていた氷でアイシングをする頃になって、やっと男性は落ち着いたようでこわばっていた顔が穏やかになった。

「どうもありがとう。ずいぶんと手際がいいんですね」
「私も何度か足を滑らせた経験があるものですから」フフッと笑うと、おじさんも笑顔になった。
「痛みに弱いものだから。だらしない男だって笑ってくれていいですよ」
「誰だって痛いのは嫌ですよ」
私たちはくすくすと笑い合った。

ーーーこれが私と新発田社長の出会い。