こういう時の彼女ほど分かりやすい人はいない。

驚きと焦り、疑念という一通りの思案を通りすぎて、最終的には眉間の辺りに「誤魔化す」という強い意思をみなぎらせている。


まだ子供の頃飼っていた犬のリンドウの方が……例えばリンドウが庭木に成った果物を食べて叱られていた時の方が、余程上手に素知らぬふりをしていたと思う。


「今朝までぐっすり寝てたもん、寝顔なんて見てないよ。
夏雪の自意識過剰なんじゃないの?」


「昨晩の話ではありませんが」


「え?じゃあ……えっと…いつのことよ。

だいたいね、いつもそんな余裕なくなっちゃうくらい限界まで…っ……じゃなくて!

昨日は久しぶりに…二人きりで、う、嬉しかったからそれは良いんだけどっ。

汗すごいかいたはずだし、ベタベタしてるのとか見られたくない……ホントは私だって夏雪より早く起きて、見られても大丈夫な顔にしておきたいのに」



嗚呼……

朝から彼女を苛めるんじゃなかった。


透子は希にこのように、無自覚で凶悪な悩殺をやってのける。これから役員会だというのに、彼女が言葉を紡ぐ度に頭に靄が立ち込んでいく。

これ以上言い訳を聞いていたら確実に仕事に支障が出るだろう。


「素顔であろうと透子の寝ている顔は可愛いですよ?

さらに寝言を言ったり、寝ながらにして笑ったり、非常にエンターテイメント性の高い寝姿で楽しかったです。」


「えっ私、ニヤつきながら寝てたの!?寝言って何!?」


「秘密です。俺だけの想い出にします」


「忘れてよぉおおこの悪趣味ーー!!」


頭を抱えたせいで、結ったばかりの彼女の髪が早くも乱れる。企画営業課の「矢野さん」が残業していたときよく見た光景だ。


「貸して下さい」

「あっ、」


髪止めをはずして彼女の髪にブラシをかける。微かな甘い香りが舞った。


「私の髪なんか気にしなくて良いってば、

……もうすぐ仕事でしょ」


先程からずっと、けたたましく話していた透子の声がほんの少しトーンを落とした。

気遣うような、淋しそうな、そういう声だ。

恋人となってから透子と過ごす時間は短く、その原因は休日まで仕事をしている自分にある。


「大丈夫ですよ。透子ほど不器用ではないので」


元々そうしてあったように髪を幾つかに分けて、ねじって止める。柔らかくて絡みやすいので慎重に束ねた。


「……さっきの事だけど、私が夏雪の顔を見てた時、起きてたのに黙ってたわけ?」


「さあどうでしょう。思い当たるふしがあるんですね、変態の矢野さん。

あの時は恋人ですらない、ただの部下の寝顔ですけどね。」


「む…ぐぐぐ……」


髪を全部を結い上げると白い首の細さが目立った。その美しさをさらに引き立たせるように、うなじの後れ毛も元通りに再現する。


……今日これからの、俺と一緒に過ごさない時間のために綺麗でいてほしくない、などというのは傲慢なエゴだ。

結った髪をぐしゃぐしゃに崩したくなる気持ちをやり過ごす。


「わぁ……っ何でこんなことまでできるの?凄すぎるっ」


合わせ鏡を見ながら透子がはしゃいでいた。言うまでもなく俺が凄いのではなく彼女が雑なだけである。

髪型を不思議そうに見つめる透子の隣でネクタイを締める。少しずつ、現実に浸食される時間。