伯爵家の食堂では、主人席にはエリーゼの兄アンドレが腰を下ろしていた。エリーゼとグランが入ってくると彼は笑顔で立ち上がった。
「やあラグレーン殿、ようこそ。エリーゼ、お帰り。よく彼を連れて帰ってきてくれたね」
「こんばんは。お招きいただいて光栄です……」
グランは小さく会釈をした。
「ただいま、お兄様。あら、あなたたちは私ほど久しぶりではないのでしょ」
エリーゼはツンとすましたように言い、上着や荷物を後ろで控えていた召使いに預けると席についた。
アンドレは軽く笑った。
「まあそうだね、でも仕事なのだからあたりまえじゃないか……ああ、ラグレーン殿、ぜひそこへ座ってください、上着は彼に」
グランが振り返ると召使いが上着と鞄を受け取ってくれた。グランはその動作に一抹の懐かしさを覚える。昔は自分もこういう生活をしていたのだった。崩れかけた家の扉を開けて、上着をその辺に放り出し、テーブルに置いてある古くなって固くなったパンをかじるのではなかったのだ。
席について食前の祈りをすませると、ご馳走が次々と運ばれてきた。豪華さを増していくテーブルを見ながら、スープを口に運びながらグランは疲労でぼうっとしていたが、アンドレに話しかけられていることに気づいてはっとした。
「……ですから、長年商業に携わっていた男は他とは違うと実感しましたよ。やはりあなたに頼んでよかった」
どうやら商会の仕事の話をしていたようだ。兄の言葉に、エリーゼはサラダをつつきながら不服そうに言った。
「お兄様は意地悪よ、ちっとも動いてなかった商会をグランに押し付けるなんて。彼は生きていくために働いているのよ。お兄様みたいに気まぐれを起こしている暇なんかないわ」
「おやおや、そうなのですか?」
アンドレはおどけたようにグランの方を向いた。
グランは肩をすくめるようにして答えた。
「正直に申しますと、私は今の造船所での稼ぎでやっと生活できる状態で……商会の仕事はその合間にやる程度でしかお力になれず、申し訳ない限りです」
「えっ?」
アンドレは柔和な雰囲気を崩して驚いたように目を見開いた。
「ほんとうにそうだったのですか? ま、まだ造船所に?」
「まあ、お兄様ったら! それじゃあ私が今日グランを迎えにどこへ行ったのか知らなかったというの?」
エリーゼが呆れたように言ったのに、アンドレは妹の方にがばっと振り返る。
「お前……造船所まで行ってきたのか!?」
「そうよ。お兄様ったら彼とは毎週会っているのに想像もしなかったのね」
「そんな……でも、商会の仕事が動いているのにどうやって……」
戸惑っているアンドレに、グランは静かに答えた。
「ほぼ毎日造船所へ通っています。事務所に行くことができるのは仕事が終わった後と、休日だけです。アンドレ殿はいつも休日にいらっしゃるから……」
商会に携われるのはほんとうに限られた時間だ。生活していくためにはどうしようもなかった。
アンドレはずっと驚いた表情のままで、グランを見つめていたが、突然すっと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。あなたのご事情をしっかり把握できておりませんでした。しかしそんなわずかな時間であそこまで……」
なにやら口先で呟いた後に、決意したような顔になって確認するようにグランに尋ねた。
「造船所で働くのは衣食住のためとおっしゃいましたね? それ以外に理由はないと?」
「え、ええ」
「わかりました。ラグレーン殿、ここから北にそう遠くないところに私の所有する家がありますから、明日からでもそこで生活してださい。ほんの小さな住まいですが、コックと召使い、メイドをつけてありますから家事全般は安心してくださって結構です」
「な、なんですって? まさか……」
「造船所を辞職して、こちらの商会に専念していただけませんか。生活はこの私が保障します」
伯爵子息がまたもや思いもかけない提案してきたことに、グランは頭を抱えそうになった。衣食住と仕事を与えるのか? この俺に? 彼は一体なにを考えているんだ?
グランは混乱した頭で少しの間黙っていたが、顔をしかめて言った。
「……商会はまだ利益を出していない。見返りを受け取るほどの功労も立てていない。なにより私は――施しは受けません」
そう強く言い切ったグランを、エリーゼは横で見ていた。彼はあの舞踏会の夜、物乞いになるくらいなら死ぬと言っていた。人からなにかを与えられることに抵抗があるのかしら。
しかし、アンドレは首を振った。
「施しではありません、私はあなたに投資しているのです」
「……投資?」
「そうです。あなたはわずか二ヶ月、それも造船所の仕事の合間という限られた時間で、商会の欠落を見つけ、正確な運営に導いた。あなたはやはり商いの人間です。あなたがこの商会を大きく繁栄させてくださることにどうか投資させてください。もちろん商会が軌道に乗ってあなたの収入が安定すれば、家は出ていってもらってかまいません」
熱心に言うアンドレに、グランは苦虫を噛み潰したような顔になった。
もちろん商いはグランには慣れたものだった。造船所で木材を運ぶよりも数字を割り出す方がずっと得意だ。
しかし、グランはこのアンドレという男がどうしても信じられなかった。自分は牢獄から出てきた身だ。たとえこの商会が成功しても、自分の名を社交界に明かせば損失を招いてもおかしくはない。なにも得るものがないはずなのに、こうまでして自分にかかわろうとするのはなぜなのだろう。なにか裏があるにちがいないのだが、グランにはそれが全くわからなかった。
黙っているグランに、アンドレは再び意地悪そうな笑みを浮かべた。
「まあ、私の話を受けないという選択肢はないことは、すでにご存知かと思いますが」
グランは目を細めた。またこれだ。
「あなたは……恐ろしい人ですね」
アンドレは悪びれる風もなくにっこり笑った。
「よく言われます。実際はそうではないつもりなのですがね。まあでもこの話はあなたにとっても、悪くないでしょう?」
「あらグラン、私は大賛成よ。だってあなたの忙しさが少し減って、会える機会が増えるんですもの!」
エリーゼが嬉しそうに口を挟んだ。
アンドレはそんな妹に優しげな微笑みを向けている。それは兄が妹を慈しむものにちがいなかった。
グランは肩をすくめた。
「……わかりました。ではあなたに従うことに致します。商会に全力を尽くさせていただきます」
「よかった! それでは早速明日から引っ越しの準備をお願いします。ああ、これで心置きなく夕食を味わえる」
アンドレはにこやかにメインの肉にナイフの刃をあてた。