「私はアンドレ・ドゥ・ジレ・ドルセット、エリーゼの兄です」
にこやかに差し出された手を戸惑いながらグランは握り、恐る恐る名を名乗った。
「私はその……グラン・ラグレーンです」
グランは怯えた様子でアンドレの顔を窺ったが、伯爵子息はにっこりと微笑んだ。
「ええ、存じ上げておりますよ。妹があなたに執心だということで、失礼を承知で調べさせていただきました。今までのあなたのことを少しばかり。今は造船所にお勤めだとか」
その言葉にエリーゼは驚きの声を上げた。
「なんですって? お兄様、なぜそんな……!」
「お前がこの前のブリュノー家の舞踏会で男性と親しそうにしていたとサロンできいたからだよ。めずらしいこともあるものだと思ってね」
「……あの場で名を明かしたつもりはありませんでしたが。よくお分かりになられましたね」
グランの言葉にアンドレは目を瞬かせて答えた。
「おや、ご存知ない? 社交界ではあなたはちょっとした有名人ですよ。銀行家だった方が横領、詐欺の罪を犯し、牢獄に入り、新聞にさえ載ったんですからね。仮面舞踏会ではないのだし、あなたの顔がわかる人間だってもちろんいる……私も含めて」
アンドレの率直な言葉にグランは暗い表情で頷いた。
「そう……でしたか」
さすがは貴族の子息だ。再起を図る望みを抱いていたグランの思惑を見抜き、もう社交界に堂々と出るようなことはできないぞと牽制しているようだった。彼自身もそれだけの事を犯してきたと、今さらになってじわじわと身に染みてくるのを感じた。
そんな暗い顔のグランとは対照的に、アンドレは朗らかに言った。
「ただ、私の妹は社交界に出たがらないので、あなたより知名度は低いのですよ。家族がらみの知人から、エリーゼが男と親しそうにしていたとは聞いたものの、一般的に大きな噂として流れているのは、"あのラグレーンが社交界では知られていない絶世の美女ときつく抱き合っていた"という方ですからね」
「だっ……!」
グランは瞬時に顔を赤らめて口に手を当てたが、エリーゼの方は面倒そうに目を細めて息を吐いた。
「これだから社交界は嫌いなのよ。余計なところだけ強調されて伝わっていくんだから」
「それで? 実際はどうなんだ、エリーゼ。彼との関係は」
微笑みながらも問い詰めるようなアンドレの目つきにグランは怯んだが、エリーゼは再び大きなため息を吐くと、怯えることもなく肩をすくめて言った。
「別に公言できないような関係ではないわ。それにあの舞踏会では、私が躓いたのを彼が支えてくれただけ。噂が大げさなのよ」
エリーゼの言葉に、グランは心の中でほっと胸を撫で下ろした。まさか彼女がグランの復讐計画を話すとは思っていなかったが、それでもその勢いをつかせるほどにアンドレの笑顔は恐ろしかったのだ。
アンドレは妹を厳しい目で見下ろし、2人はしばらく睨み合っていた。しかし、やがてアンドレは小さく息をつくと、ふっと優しい目になって緩く微笑んだ。
「そうか」
なぜか納得したようなアンドレに、グランは小さく驚いたが、同時にぞっとした。
恐らくこの社交に内向きなエリーゼから男の影を遠ざけていたのは十中八九彼であろう。彼らの父親である伯爵にこそ会ったことはないが、このアンドレは社交界の全てを握っているような余裕さえ感じた。貴族の独特な雰囲気を醸し出している。
グランはおずおずと口を開いた。
「……あなたやドルセット伯爵家の名誉を汚してしまったのでしたら、お詫び致します。もう金輪際このお屋敷には近づきませんし、エリーゼ殿とも……」
「ちょっと! そんな事、この私が許さないわよ!」
エリーゼが慌てて口を挟み、兄に申し立てた。
「ねえ、お兄様、かまわないでしょう? 確かに彼は牢獄に入っていたけど、でも彼にだってやり直す権利はあるわ。お兄様がだめだって言っても、私は彼から離れたりしないんだから!」
こぶしを握って言い切る妹の方を指し、アンドレはグランに肩をすくめてみせた。
「この通り、妹はずいぶんあなたに入れ込んでいるようだ。私が介入する余地もない」
困ったように笑う伯爵子息にグランはなにも言えず、兄の隣に座って口先を尖らせているエリーゼと彼を見比べた。妹はわかりやすい性格をしているが、兄の方は謎めいた笑みを浮かべるだけで、全く心が読めない。あまり深入りをしない方がよさそうだ。貴族との繋がりを断つのはおしいが、今後ドルセット家と関わりを持つのは避けよう。そう結論づけていたグランだったが、アンドレは思いがけないことを話題にしてきた。
「ところで、ラグレーン殿。あなたは昔からずっと数字を仕事にしてきたと伺っています。銀行家になるまでには山ほどの帳簿をつけてきたのでしょうね」
グランは急に話題が変わったことに目を瞬かせ、不思議そうな顔を浮かべて頷いた。
「え、ええ。経理はそれこそ十代の頃からやっていましたが……それがなにか?」
アンドレはにっこりと微笑んだ。
「実は私が所有している商会がいくつかありまして、そのうちのひとつ、紅茶商会の経理係が私用で辞めてしまいましてね。誰かいないかと探していたのですが……ラグレーン殿、あなたはいかがでしょうか?」
グランはぽかんとした。今、彼はなんと言ったのだろうか。伯爵家の所有する商会の経理係を? この俺が? 驚きのあまりグランはすぐに言葉を発することができず、変わりにエリーゼが声を上げた。
「お兄様、一体なにを企んでいらっしゃるの?」
妹の怪しむ目に、アンドレは笑って両手を上げてみせた。
「企んでいるつもりはないよ。ラグレーン殿にはそういう仕事の経験がおありだろう。その才能を無駄にして造船所で葬るなんて真似はするべきではないと思っている」
伯爵子息の微笑みに、グランは首を振った。
「私に才能なんてありません。銀行家になったのだって、ご存知の通り運が良かったのと……不正を行っていたからです。確かに長いこと帳簿を仕事にしていたから、その辺の経理士より正確にこなすことはできます。ですが、私は――」
「昔」
グランの言いかけた言葉を、アンドレは遮った。
「昔、船上で帳簿をつけていた時は、真面目にやっていたと伺っています。それだけで十分かまわない。銀行家になれとは言いませんよ。もちろん、不正を再び行おうとは考えていないでしょうし」
グランは、目の前の青年になにもかも見透かされているようで、背筋が寒くなるのを感じた。そのくせ相手の考えていることはなに一つわからない。完全にこちらが不利だ。
アンドレは笑みを深め、追い打ちをかけるように言った。
「まさか私からの申し出を断れるとは、お思いではありませんよね?」

結局、グランは伯爵子息の"提案"に同意し、アンドレの持つ商会の一つ、紅茶商会の経理を担うと契約書にサインをした。それが済むと、アンドレはグランに挨拶をし、満足したようにもう用は済んだとばかり客間を出て行ってしまった。
グランはぐったりとしたように息を吐いた。
その様子を横で眺めながら、エリーゼは気まずそうに話しかけた。
「あの……グラン? そ、その、思いがけない事になったわね」
「思いがけない? 一体君の兄上はなにを考えているんだ、俺は……俺には前科があるんだぞ? きっとなにか罠があるにちがいない」
「まさか! お兄様の考えは私にもさっぱりわからないけど、でも、誰かを陥れる事は絶対しないはずよ。悪い人ならともかく……」
「ふん、悪い人ならともかく、か」
 皮肉げに、グランは口の端をあげた。
そうであろう。そしてこの俺がその"悪い"人間だ。グランは脚を組んでその上で頬杖をついた。
どうしたものか。銀行家だった時代、自分より下の人間をさんざん利用してきたが、貴族を敵にまわしたことは一度もなかったはずだ。社交界でも彼らに恨みを買われた瞬間に存在を消された奴は山ほど見てきた。ドルセット家に関わった事があっただろうか、いや絶対にない。
グランはエリーゼを見た。
彼女を利用しようと、あの夜に彼女をいつか利用しようと少しでも考えたことがわかってしまったのだろうか。いや、実際にはまだなにもしていない。それに、復讐のことも、エリーゼは兄に言わなかった。となると、すべてのたくらみは彼女にあるのか? いや、社交界に出ない引きこもりの彼女がそんなことを考えるのはあり得ない。
エリーゼは思考をめぐらせている彼をじっと見ていたが、「ねえグラン」と呼びかけた。
「あのね、お兄様は私を害することは絶対にないの。私を悲しませることもよ。私はとっても甘やかされて育ってきたんだから。だから、私のお友達を罠に嵌めるなんてことはないと思うの」
グランはこばかにしたように笑った。
「そもそも、俺があんたの"お友達"であること自体、あんたの害じゃないか。それが一番の理由……」
「そんなことないわよっ!」
突然エリーゼが大きな声を張り上げたので、グランは少しびっくりしたように目を見開いて押し黙った。
エリーゼの方も自分が思わず大きな声を出したことに対して驚いたような表情をしていたが、咳払いし彼をまっすぐ見つめると冷静な声で言った。
「私は、あの舞踏会の時からあなたの味方でいたいと思っているの。ほんとうよ、忘れないで」
あまりにも真剣な表情に、グランは先ほどまでの皮肉げな、人をこばかにしたような笑いを浮かべることができなかった。
 取引や打算もなくただ"友達"と言い張り関わってこようとするエリーゼの心理が、グランにはわからなかった。兄と違って単純で分かりやすい性格だが、いちいち人の心に入り込んで世話を焼こうとする。教会の人間みたいだ……もうずっとそんな場所には行っていないが。ふと、あのバルコニーで彼女が背中を撫でてくれた記憶が頭に蘇った。優しく、温かな手だった。
やがてグランは、なんとも言えない表情で、小さく「わかった」と頷いた。彼は知らずのうちに、彼女への警戒を解いていることに、まだ気づいていなかった。