エリーゼは客間の長椅子に腰を下ろしてお茶を飲んでいた。きっとあと5分もしないうちにノックの音がするはずよ。
エリーゼの予想通り、すぐに扉が静かに叩かれた。
「エリーゼ様、お連れいたしました」
「どうぞ」
エリーゼが応じると、真新しい黒いフロックコートを身につけた男が遠慮がちに入ってきた。
エリーゼは扉を開けたメイドに紅茶を淹れ直すように言った。彼女が去ると、エリーゼは腰に手を当てて、入ってきた男を睨んだ。
「やっとおでましね。私がどれだけ待ったと思っているの、グラン?」
名前を呼ばれた彼は気まずい表情を浮かべ、ばつの悪いような、あるいはふてくされたような様子で帽子を取った。
「……入れなかったんだ。爵位も地位もない身分で、用事もないのに由緒ある伯爵の屋敷を訪れるなんて無理だ」
「用事もないだなんて、私があなたを呼んだのよ。私のお友達として堂々としていればいいの」
「お友達なんて、あんた正気か? 俺は造船所の労働者なんだぞ」
「あら、造船所で働くことにしたのね! 働き口が見つかってよかったじゃない」
エリーゼのあっけらかんとした物言いにグランは返す言葉が見つからないようだった。
扉がノックされた。メイドによって、新しく淹れ直された紅茶とともにグランの送った花々が花瓶に生けられて運ばれてくる。グランは心の中であっと叫び、緊張しながらエリーゼの顔色をこっそりと窺う。こんな野に咲くような花で、伯爵令嬢に笑われたら……。しかし、グランの心配は余計な杞憂に終わった。
「とってもきれい」
エリーゼはテーブルに置かれた色とりどりの花々を眺めて、うっとりとつぶやいた。
「ありがとう。お花をもらうなんて初めてだったから嬉しいわ」
どうやら花は気に入ってもらえたようだ。グランは心の中でほっとしたが、彼女の嬉しそうな微笑みに少し照れくさくなり、ごまかすようにふんを鼻を鳴らして言った。
「伯爵令嬢が初めてなわけがないだろう。理由がなんであれ、男が女に贈り物をするのはあたりまえの社交辞令のはずだ」
エリーゼは罰が悪いような顔をして言った。
「ええと、その……ほんとうに初めてなの。私は舞踏会や茶会に出ていないから、社交界でもあまり存在を知られていないのよ。だから友人も少なくて」
グランは目を瞬かせた。社交界で存在を知られていないだと――?
そんなことがあるはずはなかった。ドルセット伯爵の地位はゆるぎなく、社交界でも知らない人間はいない。舞踏会に参加せずとも、その名前だけで贈り物をする者は大勢いるにちがいない。ということは、ドルセット伯爵、あるいは彼女に執心の誰かがそれらのものをすべて阻んでいるのではないだろうか。
そういう考えに至ると、グランはぞっとした。俺は花を送ってしまった。それどころか今、彼女と屋敷の客間に腰を下ろしている。そしてメイドが控えているとはいえ、部屋には二人だ。これは非常にまずい状況なのではないか。約束も取り付けずに会うことができるのは平民だけだ。確か貴族の令嬢と会うには、その庇護者の許可を得なければならなかったはずだ。ここへ突然伯爵が部屋にやってきてしまえば、自分が無事でいられる保証はどこにもなかった。
メイドがグランの前のカップに茶を入れ終えると、グランは一気にそれをあおり、腰を上げた。喉がひりひりするのもかまわなかった。
「それじゃあ俺はこれで」
エリーゼはカップを口に近づけていた手を止めた。
「え? 冗談でしょう」
「用事を思い出したんだ、こんなところで茶を飲んでいる場合じゃない」
エリーゼは呆れたようにカップを置いた。
「そんな言い訳が通用するとでも思っているの? 友達より大事な用事って、一体なによ」
「戸締りだ。家を出ていく時に鍵を開けっぱなしにしていたことを思い出した」
嘘ではなかった。しかし、そんなことは毎度のことだ。有り金は全部所持しているので盗まれて困る物はなかった。そもそも家とは、ただのねぐらとして使っている小屋にすぎず、泥棒が入るような場所でもないのだ。そんなことより、伯爵に見つかる前にこの部屋から――屋敷から出たかった。
グランの焦りをよそに、エリーゼは目を細めて言った。
「なんともまあ、今思いついたような用事ですこと。どちらにせよ、今までなんの音沙汰もなかった分、今日の午後はずっと私に付き合ってもらうから」
「な、なんだと、勝手に決めるな! 俺はもう帰ると言っているんだ!」
グランはそう言って客間の扉の前までずんずん歩み寄ると、勢いよく開け放ち――扉の向こうに誰かが立っていたために思わずのけぞって「うわあっ」と驚きの声をあげた。
グランと同じほどの、あるいはいくらか若い青年のようで、手の甲をこちらに向けていることから、ノックをしようとしていたらしいことがわかった。彼はグランが勢いよく開け放ったことに驚いていたようだったが、すぐに微笑を浮かべて落ち着いたトーンで言った。
「私もまだ帰るのは早いと思いますよ。来たばかりではありませんか」
その声に、グランよりも早くエリーゼの方が反応した。
「あら、お兄様!」
お兄様? グランは目の前の青年をまじまじと見た。
エリーゼと同じ栗色の髪に青い瞳が光っている。まさか、彼がドルセット伯爵の嫡男の――?
「とんだご無礼を!」
慌てて頭を下げたグランに、伯爵子息は柔らかい口調で言った。
「いえ、どうぞお気になさらず。むしろ扉を開けていただいてありがとうございます。妹のご友人がいらっしゃったときいて挨拶をと思いまして」
グランは頭を上げたが、すっかり恐縮したように述べた。
「ゆ、友人だなんて恐れ多い。身分をわきまえず大変失礼を……もうここへは二度と足を踏み入れませんので」
とたんにエリーゼが眉を吊り上げた。
「そんなのだめよ! あなたは私のお友達だって言ったでしょう、言い訳はいいからこっちに座りなさい!」
「エリーゼ、友達だというわりには命令しているように聞こえるぞ」
兄が笑いながらたしなめたのに、彼女は肩をすくめた。
「だって私は散々待たされたのよ……グラン、早く戻って。お兄様もどうぞ」
グランは伯爵子息に帰らせてほしいと目で訴えたが、彼はにっこりと微笑んで長椅子に座るよう促すだけなので、結局部屋を出ることはできなくなってしまった。