男はエリーゼを連れて、2階へ上がっていく。舞踏会は始まったばかりなので、この辺りにはまだ誰も見当たらなかった。その中をずんずん歩いていき、やがてバルコニーに出た。星がちらちらと輝き、月の浮かぶ夜空が広がっている。
そこまでたどり着くと男はようやく足を止めてエリーゼの手を放した。彼は手すりに手をついて息を整えてから彼女を睨みつけた。
「なぜ邪魔をした?」
エリーゼも息を整え、そしていつのまにか溢れていた涙を拭った。
「なぜ、ですって? 止めるのはあたりまえじゃない。あなたこそどうして彼を……!」
「復讐だ」
男は苛だたしげに言った。
「奴は俺を嵌めて牢獄に入れたんだ」
エリーゼは濡れた目を見開いた。牢獄ですって?
「あなたはだあれ? 貴族ではないの?」
恐る恐る問うと、男は口を歪めて答えた。
「俺の名は、ラグレーンだ」
それをきいて、エリーゼは見開いた目をますます大きくさせた。
ラグレーンといえば、ここ最近、新聞記事で名前を馳せた人物だ。この港町から莫大な財産を築きあげた銀行家だったが、つい先日今までの悪事が明るみになり、彼は捕らわれたのだ。被害者の情けで牢獄を出たときいていたけど、まさか彼がその話題の人だったなんて!
「ふん、驚いたか。えらく話題になったからな。俺はあいつのせいで、地位も財産も、名誉も失った」
確かに彼の言うとおり、ラグレーンが牢獄に繋がれたのは、1人の紳士の巧妙な策があったからだった。しかし、ラグレーンが裏帳簿を画策して財を築いていたことには間違いなく、紳士はその被害者で、彼はただ正義を貫いたに過ぎなかった。そして、ラグレーンが牢獄から出ることができたのは、紳士が釈放を願ったからである。
その男というのが、先ほど人々の輪の中にいたあの紳士だったらしい。
「奴がいなければ、俺は周辺国で有名な資産家になっていた。あいつが全部ぶち壊したんだ」
ラグレーンの表情、声は、深い怒りと憎しみにとらわれているようだった。エリーゼは懸命に頭を働かせた。とにかく彼の復讐を阻止しなければ。
彼女は慎重に言葉を紡いだ。
「……どんな理由であれ、人の命を奪うなんて絶対にいけないことだわ。復讐して、その後はどうするの?」
「奴の心臓を刺したら、俺も死ぬつもりだ。もう二度と、牢獄に入るのはごめんだからな」
ラグレーンは吐き捨てるように言うと、エリーゼから視線を外し、バルコニーの手すりに両手を置いたまま下を向いた。
「奴に復讐できる唯一のチャンスだったのに。あんたのせいでだいなしだ。俺は牢獄に入れられてから、この日のために――この復讐のために生きてきたのに」
「でも、こ、殺すなんて。もしまたチャンスが巡ってきたとしても、私はまたあなたを全力で止めるわ」
「ふざけるなっ!」
エリーゼの言葉に、ラグレーンは反射的に彼女の方を向いて怒鳴った。
「俺が生きている理由は奴への復讐、それだけなんだ! 邪魔をしないでくれ!」
彼は大声で怒鳴った後、下を向き荒い息を吐いて自身を落ち着かせたが、鼻で笑いながら言った。
「それとも、なんだ? あんたは奴と関わりがあるのか? 横恋慕でもしているのか……あいつには女がいるんだぞ」
エリーゼは心外だと言うように声を荒げた。
「な、なにを言うのよ! そうじゃないわ、私は新聞でしか彼のことなんて知らなかったし、後ろ姿を見たのも今日が初めてよ」
エリーゼは深く息を吐いてから続けた。
「元はといえば、あなたが悪い事をして捕まったのでしょう? 釈放されて、せっかく新しく生きるチャンスをもらえたのに、なぜそれを無駄にしようとするの?」
「さっきも言ったが、俺の望みはただ一つ、復讐だ。俺の財産は全て取り上げられたんだ。生きのびて物乞いをするつもりはない」
「物乞いですって……甘ったれないでっ!」
エリーゼが突然声を張り上げたので、ラグレーンは驚いて口を閉ざした。
「あなたは今までなにをして生きてきたのよ! 不正は犯したかもしれないけど、それでも銀行家になるためには様々な努力をしたはずよ。学んだという経験がありながら、あなたは死か物乞いかという選択肢しか生み出せないの?」
エリーゼの率直な言葉に、ラグレーンはぐっと口を結んだ。エリーゼは続けた。
「下積みの時もあったのでしょう? 少なくとも生きる術は知っているはずだわ。もう一度そこからやり直せばいいじゃない」
「ふん……貴族のあんたになにがわかる」
ラグレーンは口を歪め、陰気な目を細めて言った。
「もう一度? あれだけの財産を築くのにどれだけの時間と労力をかけたと思っている? あんたみたいな伯爵令嬢には、俺の苦労なんて欠片も理解できないさ」
エリーゼはその嘲るような言い方にかっとしたが、彼の言う通りであることには間違いなかったのでグッと歯を噛みしめて言った。
「ええそうよ、私にはわからない。でも、私だけじゃなくて他の誰にもわからないわ。あなたにしかできないことなんですもの。不正はあったかもしれないけど、それでも銀行家になるなんて、並大抵の能力でできるわけじゃないのよ。もっと……もっと自分を信じなさいよ」
ラグレーンは、エリーゼの思わぬ言葉に一瞬虚を突かれたような顔をした。すぐに「ふん」と鼻をならしたが、彼女からは目を逸らしてバルコニーの外を向いた。その横顔からは小さな動揺が見られた。
エリーゼは続けた。
「あなたには少なくとも知識があるわ。財産は失ってもそれはあなたの中に残っているはず。ね、きっとまたやり直せるわ」
ラグレーンは外の暗闇を眺めながら、なにを言っているんだとばかにしたような、しかし、弱々しい笑みを漏らした。
「やっていけるわけがないだろう。知識があったって、なににもならない。言っただろう、俺はすべてを失った。あんなに、あんなに必死になって築いた財産も地位も……なにもかもだ……」
いつのまにかラグレーンの自嘲するような笑みは消え失せ、すっかり絶望したような声になっていた。
エリーゼは彼の変化に少し心配になり、ラグレーンの方に歩み寄ろうとして、手すりに置かれた彼の手が震えていることに気づき、はっとした。手だけではない、肩も震えている。彼は泣いているのだ。
それがわかったとたんに、エリーゼは目の前の男が急に気の毒に思えてきた。
夜会用の服を着込み、あのうんざりするような長い列に並び、通そうとしない門番に必死になって食い下がっていた。一体どんな思いでこの舞踏会に来たのだろうか。家族も、友達も、パートナーもいないこの場所に。
「……なにもないなら」
エリーゼは呟くように言った。
「なにもないなら、新しい代わりを手に入れればいい。失ったものも、取り返せる日がきっとくるわ」
ラグレーンはこちらを向かないまま乾いた笑い声をあげた。
「簡単に言ってくれる。今の俺になにができるというんだ。今の俺になにが……」
またしてもエリーゼを見下したような口調であったが、エリーゼに向けている背中は震え、虚勢を張っているような態度がかえって惨めに見えた。
エリーゼは少しためらったが、そっと手を差し出してラグレーンの背中を優しく撫でた。なぜかそうしてあげたかった。
ラグレーンは彼女の手を振り払うことはしなかったが、バルコニーの外の方に顔を向けたまま鼻をすするだけでなにも言わなかった。
しばらくそうしていたが、だんだんとラグレーンの震えが収まっていくのを手で感じた。エリーゼは言葉を探しながら言った。
「きっと……きっと大丈夫よ。あなたはまだまだやれるはず。仕事だって見つかるし、お金だってまた貯まるわ。私が、あなたの味方になる。今から私とあなたは……お友達。そうよ、それがいいわ。私は友達なんてほとんどいないから、いつでもあなたを優先できるわ!」
彼女が得意げに言ったのに、ラグレーンは向こうをむいたままぐふっと吹き出した。
「……社交に不向きな伯爵令嬢とは、聞いて呆れる」
エリーゼはむっとしたが、ちょっと恥ずかしくなって手を引っ込めてぐっと握りしめた。
「い、いいじゃない! そういう貴族もいるの。それに不向きじゃなくて、積極的じゃないだけで……わ、私のことよりあなたよ!」
エリーゼが強い口調で言うと、バルコニーの外を見ていたラグレーンはゆっくりとこちらに顔を向けた。
表情は暗く、陰気な目でこちらを見ている。エリーゼは祈るような気持ちでその瞳を見つめた。この目は今までなにを見てきたのかしら。数字、富、栄光、絶望、牢獄……。きっとエリーゼの想像をはるかに超えるようなものをたくさん映してしてきたのだろう。しかし、先ほど自分に向けられた怒りは消えているようにみえた。
対峙するように二人はじっと視線を交わしていたが、しばらくしてラグレーンが尖っていた口調を少し和らげて「わかった」と言った。
「あんたの言う通り、自分を信じよう。伯爵令嬢さんの言うことに従うのは気に触るが……いつかまた、俺は財を築いてみせる」
表情は暗いままであったが、彼の瞳の奥には小さな灯がともったように見えた。エリーゼはそのことにひとまず安堵した。
「よかった。でも伯爵令嬢さんなんてやめてちょうだい、エリーゼと呼んで。ええと、ラグレーンさんの名前は?」
「新聞、読んだんだろう?」
「新聞には姓しか載ってなかったわ」
男は舌打ちをした。
「……グランだ。グラン・ラグレーン」
エリーゼは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「グランね! うふふ」
グラン・ラグレーンは、彼女がきらきら笑うのを胡散臭そうな目で見ていたが、エリーゼは気にした風もなく言った。
「仕事が決まって落ち着いたら、ぜひ私のお屋敷に遊びに来てちょうだい。約束よ、グラン! もうお友達なんだから」
彼はもう、一番最初に会った時のような表情に戻っていた。初めてエリーゼと会話した時のように口を歪め、ふんと鼻で笑った。いいだろう、復讐する機会だってまたあるはずだ。どうせならこの伯爵令嬢を利用してやってもいい。そう結論づけたグランであったが、エリーゼは嬉しそうに話し続けた。
「私ね、あまりお茶会や舞踏会には出ないの。人付き合いってちょっぴり苦手なのよね。特に貴族って大変なのよ。だからあなたはいつでも歓迎するわ! お父様は仕事ばかりだし、お兄様も最近忙しそうで……」
エリーゼのとりとめのない話に、グランは「わかったわかった」とうっとおしそうに頷いたが、先ほど彼女が優しく背中を撫でてくれたことに、荒んでいた心がほんの少し和らいだように感じていた。

夜空に浮かぶ月は、そんな二人が立つバルコニーをぼんやりと照らしていた。