伯爵邸は、いつになくピリピリした雰囲気だった。客間に案内され、そこのソファにどっかり座っていたのは、想像通りドルセット伯爵ベルナールだけだった。ベルナールはグランの顔を見ると一瞬顔を歪めたが、表面的な笑みを浮かべた。
「仕事中にわざわざ呼び出してすまない。そこにかけてくれ」
グランは伯爵の向かいに座った。
「名乗るのが遅くなり申し訳ありません。私はグラン・ラグレーンです。ご子息アンドレ殿の所有する商会の経理その他運営を担当させていただいております」
「ああ、知っているとも。悪いが全て調べさせてもらった……君の生まれから今に至るまで全て。銀行家として名を馳せていた事も牢獄にいた事ももちろん知っている」
伯爵は軽い口調で言ったが、グランはその言葉に目をぱちくりさせてふっと笑った。その柔らかい笑みに伯爵は怪訝そうな表情を浮かべた。
グランは言った。
「申し訳ありません。ただ……ご子息と全く同じことをおっしゃるもので」
「なに……?」
伯爵は目を見開いたが、すぐに元の形式的な笑みに戻った。
「以前君は宮殿近くの豪邸に住み、貴族とも並ぶような生活をしていたらしいな。社交界にいそしみ、誰より上等な食器を使い、誰より上等な馬を持っていたと」
グランは目を細めた。
「……そうでしたね。あの頃はそういう細かいことにこだわりを持っていた。私には大事なことでした」
「そこでだ。君が息子の商会に大いに貢献してくれているその労いとして、贈り物をしようと思う。もう一度その生活に戻るのはどうかね」
グランは眉を潜めたが、伯爵は続けた。
「昔の屋敷を買い戻し、そこに住まうといい。それだけじゃない。私は王の覚えがめでたいおかげで、伯爵の他にも男爵位を持っている。君はそれを受け取る気はないかね」
爵位。その言葉にグランは目を大きく見開いた。銀行家時代でさえ手に入れることができなかった、かつて、どうしても、どうしても欲しかったものだ。
「わ、私が男爵に……?」
伯爵は頷いた。
「そうだ。君もこれで念願叶って貴族の仲間入りができるぞ。……その代わり、君にひとつ頼みがある」
伯爵は微笑みを浮かべつつも、鋭い目で切りつけるかのような視線をグランに向けた。
「エリーゼと今後一切関わらないでいただきたい」

客間の隣の部屋では、エリーゼがその部屋に通じる扉に背をもたれて、客間での会話をきいていた。アンドレも横でそれを心配そうに見守っている。
グランの来る数時間前に、エリーゼとアンドレはこの部屋にいるよう父親に言われた。そして決して大声を上げないことと会話の邪魔をしないこと、話が終わるまで部屋を出ないことを約束させられた。守らなければ、エリーゼは問答無用で修道院送りだと言われたのである。
「ひどい、ひどいわ、お父様……。グランにあんな事を提案するなんて」
アンドレは泣いている妹の頭を撫でてなだめたが、自分自身も心を痛めていた。グランは、銀行家でなくなった今でも爵位を欲しているはずだ。社交界でも商いでも、爵位があればそれだけで箔が付き、商会の範囲を広げられるだろう。なにより汚名を背負ったグランにとっては一足飛びの名誉回復だった。彼は文字通り、人生をやり直せるのである。

しかし、次の瞬間ベルナールの大声が響いた。
「なんだと!?」
グランが落ち着いた声で返す。
「申し訳ございません、大変光栄ではありますが、辞退させていただきます」
「なぜだ!? 君はなにを言っているのかわかっているのか? 爵位を……爵位をやると言っているのだぞ」
「十分にわかっています。確かに、以前の私なら天にも昇るような気持ちでお受けしていたでしょう」
ベルナールの怒鳴り声にグランは静かに答えた。
「ですが、残念ながら今は違います。私はむしろ……お嬢さんとの仲を許していただけるのなら、爵位も富もいりません」
「き、きれいごとであろう、今はただそう言っているだけで、後になれば……」
グランはふっと笑った。
「伯爵は昔の私の性質をよくご存知ですね。今考えると、実に単純だ……。私からはなにもかも取り上げていただいて結構です。しかし、お嬢さんが私に微笑みかけてくれる限り、私は彼女と関係を断つことはできません」
「エリーゼに……娘に、なぜ固執する? あれは確かに伯爵令嬢だが、家を出ればなにも持たない、ただの平民だ。爵位はそのままアンドレに相続される」
ベルナールの声は低く重々しいものになった。対して、グランの声はずっと変わらずに落ち着いていた。
「私は、彼女が貴族だから関係を断ちたくないと言っているわけではありませんよ。もし……もしもの話ですが、どこか遠い土地で、身分もなく一からやり直す生活を強いられたとしても、彼女と一緒なら私はそれを望みます」
「それこそきれいごとだ! 地位も名誉もない女になど、なんの魅力が……」
「ありますよ。お嬢さんのことは、お父上のあなたが一番よくご存知のはず。だから、地位も名誉もない、いいや、汚名しかない私から遠ざけようとするのでしょう?」
その言葉は確信をついたようで、ベルナールは急に押し黙った。グランは続けた。
「わかっておりました、私のような人間が彼女に近づいてはいけないことは。しかし、私はもう……彼女なしでは生きられない。もしお嬢さんとの関係を許してもらえるのであれば、私は全てを失ってもかまいません。失うことは一度経験していますからね。ですが、何度でもやり直せる自信はあります」
ベルナールはなにも答えなかった。
しばらく沈黙が続いたが、とうとうグランは腰を上げた。
「それでは、お話が済んだようなので、失礼して仕事に戻らせていただきます」

客間の扉が開いて再び閉まる音がした。足音は廊下を歩き、ロビーへと続く階段を下りていく。
「エリーゼ」
アンドレは、聞こえてきたグランの言葉に嬉しさのあまりすすり泣いている妹に呼びかけた。顔を上げたエリーゼの涙を拭ってやると、微笑んで言った。
「行きなさい。もう話は終わったんだ、今なら屋敷の中だから、帰りを見送るぐらいかまわないだろう」
その言葉に、エリーゼは弾かれたように部屋を飛び出した。
ふわふわした裾をつまみ上げて廊下を走り、階段を駆け下りていく。
「グラン! グラン! 待って!」
呼ばれた男は玄関の扉に手をかけていたが、名前を呼ばれて振り返り、目を見開いた。
「エリーゼ……!」
エリーゼは立ち止まっているグランの元へ駆け寄ると、そのまま息をつく間もなく、両手を彼の首に回して、彼に唇を重ねた。
グランは突然のことに一瞬頭が真っ白になったが、しばらくしてエリーゼが背伸びをしてくれていることに気づくと、少しかがんでふわりと彼女の身体を抱きしめた。
やがて抱擁を解くと、グランは顔を真っ赤にしていたが、エリーゼの方は涙に濡れていた。
エリーゼはグランの片手を両手で握った。
「グラン。私、あなたがほんとうに好きよ。今日ほど嬉しい日はないわ」
グランは顔を赤らめたまま小さく笑った。
「なんだ、話をきいていたのか」
「あなたが私の事をあんな風に思ってくれているなんて知らなかったの。だって一度も……」
「正直に言うと、最近になるまで自分でもわからなかったんだ。言葉では言い表せないくらいに君を思っていたのに」
エリーゼの目から再び涙が溢れた。
「私、どこへだってついていく。あなたのためならなんだってするわ」
グランはエリーゼを愛おしそうに見つめた。
「……エリーゼ、きっと伯爵は当分俺たちを会わせようとはしないだろう。彼にとって君は大事な娘だからだ。だが、俺の覚悟は変わらない。それだけは覚えておいてほしい」
「もちろんよ。グランも私を忘れないでね。仕事にばかりのめり込んで身体を壊さないで」
エリーゼは微笑むと再びグランの胸に飛び込んでぎゅっと抱きしめた。
別れの抱擁を交わした後、グランは屋敷を去っていった。閉まった玄関の扉をいつまでもエリーゼは見つめていたが、やがてくるりと振り返ると、涙をしっかりと拭って客間の方へと歩き出した。