それからベルトラン夫妻は客間を出て、ロビーにいたアンドレとエリーゼに丁寧に御礼を言い挨拶をすませると、安心したように微笑み合いながら帰っていった。
二人の後ろ姿を見えなくなるまで見送っていたドルセット兄妹とグランであったが、突然エリーゼは隣に立つグランの方をぐるっと向いた。
「グラン!」
グランは、彼女のきらきらした目に少したじろいだが、照れたようにそっぽを向いて言った。
「心配ないと言っただろう。もうばかなことは考えていないさ」
その言葉に、エリーゼは満面の笑みを浮かべて飛び上がろうとしたが、兄の視線に気づき、広げようとしていた両手を慌てて引っ込めた。
その様子にグランは小さく笑ったが、真面目な顔になってアンドレに向き直った。
「この度はご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。お呼び出しをいただいて、ありがとうございます」
そう言ったグランの顔はいつになくすがすがしく、憑き物が取れたようだった。アンドレはそれに満足したように微笑んで言った。
「お役に立てて光栄です。解決したようでよかったですね」
「おかげさまで。エリーゼ、君もだ。その……ほんとうにありがとう」
グランはエリーゼの方を向いて彼女を見つめた。紡ぎたい言葉は溢れ出すほどあったが、結局彼が言えたのは感謝の言葉だけだった。
「ふふ、よかったわね、グラン」
エリーゼも嬉しそうに微笑んだ。愛らしい微笑みに、グランはその頬に触れたいという衝動に駆られ一瞬手が伸びそうになったが、はっと我に返ると咳払いをしてアンドレの方を向き、切り替えた声を出した。
「それでは仕事があるので、私はこれで」
「ああ、ラグレーン殿、待ってください」
アンドレが言った。
「私も中心街へ行くので、一緒にうちの馬車に乗っていってください。事務所まで送りますよ」

アンドレは、馬車に揺られながら、目の前でぼんやりと外の景色を眺めているグランに目を向けた。
アンドレから見て、グランはやはり端整とは言いにくい顔立ちをしている。しかし最初に会った時の陰気な雰囲気はどこかへ消え、最近は仕事を的確にこなす凛とした姿を見るようになった。そして馬車に揺られている今は、目に映るものではないものを見ているかのような、心ここにあらずと言える様子である。アンドレは、人がどんな時にこのような状態になるか知っていた。
伯爵子息は小さく浮かんだ笑いを隠しながら切り出した。
「ラグレーン殿。実は、ひとつ相談があるのですが」
「相談? どんな事でしょう」
「妹のエリーゼの事です。ご存知かもしれませんが、彼女はもう二十を過ぎている。そろそろどこかへ嫁がせる必要性を感じているのですよ」
「……まあ、貴族ですから、そうでしょうね」
アンドレは苦い顔を浮かべて言った。
「もちろん、結婚の話がなかったわけではありません。伯爵家ですから適齢期の前からたくさん舞い込んできました……数年ほど前には王弟の公爵家から縁談の申し出もあったのです」
「こ、公爵から!?」
「ええ。でも、全てお断りしてしまいました。その理由がわかりますか?」
グランは眉を寄せて首を振った。
「いいえ、ちっとも。なぜ受け入れなかったのです?」
「我々ドルセット伯爵家は必要以上の権力を欲していないからです。大きな権力を持ちすぎた時に争いに巻き込まれるのは嫌でしてね。我々を支えているのは権力というより信頼。ほら、この前の宮殿の舞踏会に、父と私は参加しなかったでしょう? あの時期はいつも地方の領地に行くと領民と約束しているのです。国王もそれを存じ上げている。この長い歴史の中で、国王や世間、そして地方の領民から先祖代々信用を得ているからこそ、我々一族は今ここに存在することができるのです」
グランはエリーゼから聞いたことのある言葉に目を細めた。ドルセット伯爵家から受け継いでいる信頼こそ、なによりの誇りだと彼女は胸を張って言っていた。
しかし。
「というのは建前で」
アンドレはにっこりと笑みを浮かべた。
「ほんとうは、エリーゼが結婚相手の公爵子息をずいぶん嫌っていたからです」
「は……?」
「彼だけではありません、縁談を申し込んできた相手を、エリーゼは誰も受け入れようとしなかった。わがままと言えばその通りですが、彼女だってなにもわかっていないわけじゃない。小さい時に母を亡くし、我慢させてきたのです。私は妹には幸せになってほしかった。私利私欲のために、我々伯爵家を利用するために結婚を望んでいる男には嫁がせたくなかった。ですからみんな断ったのです」
アンドレは強い意志を目に宿してそう言うと、息を吐いた。それからしばらく沈黙したが、やがてグランに微笑みかけた。
「そこで相談なのですが、顧客の方の中やその知り合いに、妹の良い結婚相手となる方はいらっしゃいますでしょうか? ぜひご紹介いただきたいのです。人柄の良い、好青年はいらっしゃいますでしょうか」
その言葉に、グランは腹に拳をくらったような表情を浮かべた。そしてさっと下を向いてしまい、そのまま顔を上げることなく小さな声で言った。
「……探してみましょう。きっと、良い方が見つかります。人柄以外に、なにか条件はあるのですか」
「そうですね……この際、貴族でなくても良いと思っているのです。ああそうだ、あなたの部下二人はどうですか? 中産階級ですが、二人とも真面目で良い雰囲気だったことは覚えております。どちらが良いでしょうか」
グランはすっかり黙り込んでしまった。なにか発しなければと思うのだが、口に鉛が入ってしまったかのように開けなかった。
しばらくそんな沈黙が続いたが、突然アンドレはクククッと肩を震わせて笑い始めた。
「ああ、申し訳ありません、冗談です、冗談ですよ! あんな頼りないひよっこだったら、妹に完全に袋叩きにされてしまう。ほんとうにごめんなさい、あなたの気持ちを確かめたかっただけなのです」
おかしなものを見るような目つきでこちらを見ているグランに、アンドレは今度こそ優しく微笑みかけた。
「あなた以外にエリーゼの相手などいません。私だってちゃんとわかっていますよ。あなたが妹の事を憎からず思ってくれていることは」
グランはアンドレの言葉に目をぐわっと見開いた。そうしてだんだんとその頬は赤く染まっていき、すっと視線を逸らして言った。
「ア、アンドレ殿……あなたという人は! ほんとうに恐ろしい人だ」
アンドレはまた笑い声をあげた。
「よく言われます。王都の社交界では専らの噂ですよ、あなたとエリーゼの関係は。妹はこの前の舞踏会でなにがあったのか教えてくれませんでしたが」
グランは気まずげに頭に手をやった。
「妹さんに助けられたんですよ、あなたの予想した通りのことになったんです。私は……王都の社交界からは歓迎されなかった。恥をかかされ、笑い者になっていたところに、エリーゼ殿が手を伸ばしてくれた。まさか彼女がそこにいるとは思いませんでした。王都の舞踏会にわざわざ出向いていたなんて」
「妹はあなたを相当お気に召していますからね。きっともう手放しませんよ……あなたがどんな人間であれ」
グランは最後の言葉に含まれた意味を読み取り、すっと暗い顔になった。
「わからないんです、なぜなのか。なぜ彼女は私にそんな思いを抱いてくれているのか」
出会いは最悪だった。絶望に泣いていた自分は決して魅力的とは言えなかっただろう。商会の事務所に来てくれた時も卑屈な態度だったし、いつもばかにしていた。宮殿の舞踏会でもみじめな恰好で対面した。エリーゼには自分のひどい姿しか見せていないのだ。
しかし、アンドレは柔らかくグランに微笑んだ。
「私も妹がなぜあなたに執心なのかわかりませんが、彼女の思いは本物ですよ。まあそれはあなたが一番感じておられるかもしれませんが……。それにしてもラグレーン殿、どうやらあなたは今まで色恋には無縁だったようですね」
グランは自嘲するかのようにふっと笑って言った。
「生きていく上で必要ないものと思っていましたから。貧しくてそれどころではなかったんです。家族もいませんでしたから、無償の愛情というものを知らなかった」
アンドレは表情にはしなかったが、同情的な念を抱いた。彼の調べたグラン・ラグレーンの生い立ちは、産まれた時から決して恵まれたものとは言えなかったからだ。
アンドレは言った。
「エリーゼは、少々強引なところがありますが、思いやりがあり善悪の判断もつく良い妹です。私は何度も彼女に助けられましたからね、できる限りあの子の望みを叶えてやりたいと思っている。ですから……」
アンドレは真面目な顔でグランの目を見た。
「妹が望んだら、彼女を妻にしてやってくれませんか」
グランは息が止まりそうになった。一瞬舞い上がりそうになったが、冷静に返事を返す。
「妹さんが望んでくれたとしても、ドルセット伯爵がお許しくださるでしょうか。私はまだ一度も伯爵とお会いしたことがありません」
アンドレは顎に手を当てた。
「それなんですよね、問題は。父はほんとうに頭の固い人でして。完璧な解決策は未だ浮かんでこないのですが、とにかく今はラグレーン殿が自立できるほどの信頼を顧客から勝ち取ることを優先しましょう。我々伯爵家の後ろ盾がなくともやっていけるような人間になれば、父も一応人ですから考慮には入れてくださるはずだと踏んでいるのですが……」
グランは感謝の思いでいっぱいになった。アンドレは腹の読めない恐ろしい伯爵子息であることは変わりないが、それでもこれほどまでに思いやり深い男なのだ。
アンドレは肩をすくめて言った。
「まあ、よくよく考えてみてください。決して仕事の時のように無理強いはしません。困難にぶつかるのはあなた自身なのですから」
アンドレの言葉に、グランは小さく笑った。
「仕事で無理強いさせているという自覚はあったのですね」
アンドレはわざとらしく口に手を当てた。
「おっと、口がすべってしまったようだ。まあ、そのおかげで私もあなたも満足しているのですから、良いではないですか」
笑いでごまかす伯爵子息に、グランは呆れたような笑いを浮かべた。