大きなホールは飾り立てた客達でひしめき合っていた。音楽が流れ、ダンスをしたり談笑したりする人々で溢れている。慣れない人間には、この中から特定の人物を探すのに骨が折れることであったが、目のいいグランはそれを得意としていた。しかし、ダカン侯爵はまだ来ていないようだ。ホールにはすでにたくさん人がいるのに、入り口からはどんどん客達が入ってくる。
侯爵が来るまでなにか食べて待っていよう。グランは宮廷料理の並んだテーブルに近づいた。
ドルセット伯爵邸での晩餐も目を見張らせたが、宮殿の物は数が違った。あらゆる種類の食材が使われ、富を惜しみなく誇示するかのような贅沢な料理ばかりだった。色鮮やかな野菜のオードブルや子羊の煮込み、様々な種類のチーズが銀色のトレーに乗せられて並んでいた。
それらをつまんでいると喉が渇いたので、ワインはないかときょろきょろ見回していた。その時、声をかけられた。
「ワインをお探しですか?」
振り返ると、黒髪の若い女性が、にっこりと艶麗な笑みを浮かべて、赤のワイングラスをこちらに差し出してくれている。宝石の並ぶ煌びやかな深紅のドレスが見事だ。
初めて見る女性に知り合いだっただろうかとグランは目を瞬いたが、「これは、どうも……」と受け取ろうとした。と、グランがグラスを持つ前に、女性がぱっとグラスを手放した。途端にグラスは彼の足元に落ちてしまい、ワインは飛び散りグラスはパリンと音を立てて割れてしまった。ワインはグランの足のズボンに少しかかってしまったようだ。
「きゃあっ!ごめんなさい、私ったら……!」
女性が悲鳴を上げたので、グランは「大丈夫です」と言おうと彼女の顔を見て、静止した。
女性は手を口元にやって笑っていたのだ。
グランは信じられず目を丸くさせた。なんだ、この女は。
「あら、どうかして?」
女は笑みを浮かべたまま悪びれる風もなく小首を傾げ、グランは言葉を出せずにいた。
そこへ新たな声がかかった。
「おやおや、バレティーヌ。一体どうしたんだい?」
彼女に声をかけて歩み寄ってきたのは、きれいに撫でつけられた焦げ茶の短髪に上等なジャケットに身を包んだ、いかにも王都の伊達男と言えるような人物だった。
バレティーヌと呼ばれた女性は笑みを浮かべたままで答えた。
「ワイングラスをこの人に渡そうとして落としてしまったの。私がいけなかったのよ、ジャン」
そう言って少し眉尻を下げたが、やはり口元は笑っている。
その横からジャンという男がグランの方を向いてきれいな笑顔で言った。
「彼女が大変失礼致しました。服の方は大丈夫ですか……おや、ずいぶん質の高い礼服を着ていらっしゃいますね。これはすばらしい」
グランはこの男の笑顔の裏になにかあると勘づいた。
「え、ええ。ありがとうございます……」
「お詫びにお飲み物をご一緒させてください。あちらのテーブルへ」
「いや、私は……」
「そう言わずに! 王室で保存されたワインは今しか飲めません、さあさあ……」
そう言ってジャンはグランの背中に手をやり、強引に誘っていこうとする。グランは「いいえ、けっこうです」と言って彼から離れようと後ずさりした。
その瞬間だった。グランはなにかに足を引っ掛けて倒れそうになり、とっさに後ろのテーブルに手をつこうとした。その手をつこうとした場所には、まるで用意されたかのように、銀の長いトレーが、テーブルからはみ出るように置かれてあるではないか。トレーの上には、銀の水差しと数種類あるオードブル、そしてソースのたっぷりかかった子羊煮込みの鍋が乗っていることに気がついたのは、グランがそこに体重をかけてからだった。もう遅い。トレーは勢いよく跳ね上がり、オードブル料理と鍋は宙を舞い、尻もちをついたグランは文字通り、料理を頭から被ることになった。
途端に会場には、まるで道化を見ているような大きな笑い声が広がった。いつのまにか、大勢の人に囲まれていた。
嵌められたのだ。最初から――この目の前で高らかに笑っている赤いドレスの女に声をかけられた時から、罠だったのだ。そして今つまづいたのは彼女が足を出してグランを引っ掛けたからだろう。
彼女は笑いながら言った。
「いやだこの人、身体に料理を浴びたいほど食べたかったんだわ!」
それに応えるようにジャンも笑いながら頷いた。
「卑しい身分で宮殿なんかに来るからいけないのさ。馬子にも衣装とは確かに言えたが! しかしこれで身に染みただろう」
近くで笑っている彼らの取り巻きの連中達からも、笑い声とともに声が上がった。
「あれがあのラグレーン?」
「罪人のくせに、よくこんなところへ来れたもんだ」
「伯爵子息の気まぐれらしいぞ」
「牢獄の匂いがまだするわ」
「あんな格好じゃ、ダカン侯爵に顔向けできないだろう」
「顧客に見つかる前に早く帰りなさいな!」
自分の名前も素性も、伯爵家で商会を任されていることも、どこから聞きつけたのか、ダカン侯爵に会うことすら知られている。グランは驚きのあまり尻もちをついたまま立ち上がる事もできず、煮込みソースと水の滴る髪の毛の間から、笑うだけの者達をぼんやりと眺めることしかできなかった。少し離れた場所にひそひそと話す者達が見えたが、誰もこちらに手を差し伸べようとはしなかった。
そうだ、これが社交界だ。前も嫌味をいわれることはあったが、ここまでされることはなかった。いや、自分はきっと笑っている側だったのだ。
グランはかつての世間の冷たさが再び、いやかつて以上に身体に刺さるのを感じていた。
その時である。
グランの目の前に、空色のドレスの裾が現れた。床に広がるソースや水、料理で足元が汚れるのも構わずに誰かが歩み寄ってきたのだ。
誰だとグランが顔を上げた先にいたのは――天井に飾られたシャンデリアの灯りをバックに立っているのは、エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットに他ならなかった。
グランは目を見張らせた。
夜会服に身を包み、いつにも増して美しく着飾っている彼女は、心配そうな表情を浮かべてグランを見下ろしている。
「グラン……?」
エリーゼの目は、ソースと水でびしょびしょになった髪の毛から覗くグランの目をじっと見つめ、彼を心底案じている色を宿していた。エリーゼは気遣うように小首を傾げながら、グランの方へすっと手を差し伸べた。美しい、白い手袋をはめている。
「……大丈夫?」
そうしたエリーゼの行動に、周りで大きく響いていた笑い声がふっと消えた。あの名門貴族ドルセット伯爵令嬢が、前科持ちの笑い者の男に手を差し伸べている。その場を見ていた者たちはみな硬直した。
それを知ってか知らずか、エリーゼは戸惑うグランにずっと手を伸ばしてくれている。
「立てる?」
痛いほど刺さる視線の中、グランは小さく頷くと、その白くきれいな手袋のエリーゼの手に、おそるおそる自分のソースで汚れた手袋の手を重ねて立ち上がった。
立ち上がったグランは、怪我こそしていなかったが、目も当てられぬ格好をしていた。髪からは水とソースが滴り落ちているし、仕立屋が用意してくれた礼服はオードブルと煮込み料理でベトベトになってしまっている。白かったシャツはところどころ茶色に染まっていた。
エリーゼは眉を下げてグランの顔を見上げると、不恰好に彼の頬についた茶色のソースに気づき、グランと手を重ねていないきれいな方の手袋の手で拭った。グランは明らかに親密と思わせるその行動に固まった。
「エ、エリーゼ……! なにをしているのかわかっているのか」
エリーゼはしーっと言って彼の言葉を遮ると、微笑みを浮かべて小さな声で「今は私に従ってちょうだい」と言うと、今度は周りにも聞こえる程度の声で言った。
「とても素敵な服が台無しになってしまって残念ね……。でも大丈夫、ここは宮殿よ。着替えがあるはずだわ、行きましょう」
そう言って彼をホール外の廊下へ導こうとするエリーゼに、あのジャンという伊達男が声をかけた。
「お待ちください、ドルセット伯爵令嬢。ご存知ないのですか、この男は罪人なのですよ。あなたがお味方する価値もない……」
「言葉にお気をつけなさい、ジャン・ポール・ドゥ・レセット子爵。彼の悪口は私が許しませんよ」
エリーゼから突然放たれた冷たく尖った声に、グランを含めその場に居た者達は、びくっと肩をこわばらせた。この声質は兄譲りだと、グランはぼんやり考えた。
「し、しかし!」
ジャンもそれに怯んだが、どもりながら尋ねた。
「彼はあなたのなんなのですか、あなたのような方が……」
エリーゼはちらりと振り向くと、睨むようにジャンを見て言い放った。
「彼は、私の恋人です。それだけで十分な理由でしょう」
その驚くべき発言に皆が息をのんだが、エリーゼはもう用はないとグランの手を引いてホールを出ていってしまった。

ホールの外の廊下は蝋燭があちこちに灯されていたが、薄暗く静かだった。グランを引っ張ってきたエリーゼは、向こうからやってくる女官に声をかけた。
「ちょっといいかしら」
「はい、いかがされましたか……ああ、これはこれは、ドルセット伯爵令嬢様ではありませぬか。一体どうされたのです?」
女官はエリーゼと面識があったらしく、少し打ち解けたような様子になった。エリーゼも女官に微笑んだが、グランの方を見て困ったように言った。
「彼がテーブルの近くで転んで料理を被ってしまったの、着替えはあるかしら」
女官はエリーゼの後ろに立つグランに気づいて目を凝らした。
「ああ、これはひどい、上等なジャケットが、シャツが、もったいない! 着替えはもちろんございますが……いいえ、一度浴室に行かれてしまった方が良いでしょうね。こちらへ」
女官は少し考えた後、二人を階段の上へと連れて行き、エリーゼを小さな部屋で待機させ、戸惑うグランをそのまま浴室に連れて行った。
浴室では別の女官達が控えており、グランが抵抗する間もなく身ぐるみ剥がされると、浴槽に放り込まれてごしごしと洗われた。
グランが洗濯物のようになっている間、エリーゼはドレスの裾についた汚れを先ほどの女官に取ってもらっていた。
「さあ、これで大丈夫ですね、手袋も新しい物をご用意しましょう」
手際の良い女官に、エリーゼは嬉しそうに礼を言った。
「ありがとう、さすが宮殿の女官ね。頼り甲斐があるわ」
女官は嬉しそうに頭を下げた。
「お役に立てて光栄です」