商会の範囲は変わらず広がる一方なので、グランの補佐として事務員を二人を雇うことになった。面接には、グランとアンドレ、そして「妹にも判断をしてもらいたい」とアンドレが強く望んだので、エリーゼまでが立ち会った。
前科持ちの上司の元とはいえ名門ドルセット伯爵家の商会の肩書きに、数十人の応募が殺到した。その中でグランは的確に数字を扱えるか、アンドレは表に出してもかまわないような最低限の礼儀を備えているか、エリーゼは悪事を考えている人間かどうかを判断する役目を果たした。
最終的に、的確な人物が二人打ち出された。ジャスマン・コートとエミール・アルノーというどちらも若く純粋な青年だった。商いで必要な読み書きは一通り学んでおり、計算の試験も解答はほぼ完璧で、グランはそこで決定打を下した。アンドレが調べた家族事情としては、コート家もアルノー家も中産階級で後ろ盾が弱いがきちんとした家庭であり、話し方も所作も態度もわきまえていた。なによりエリーゼが評価したのは彼らの純粋さだった。家族のためにまっすぐ生きているその姿に偽りはなく、信頼に値する者たちだと確信できたのだ。
彼らのその真面目な仕事ぶりは、大いに商会の力となった。全体的な数字の管理はグラン自身が行ったが、商品の揃えや顧客への対応などから少しずつ二人に任せられるようになっていった。
グランの言うことをなんでもきき、彼の望む通りに育っていく若い部下達に、グランは昔の記憶を蘇らせた。仕事にあくせく励む姿で連想するのは、自分の姿ではなく、かつて自分の同僚だった男だった。人当たりも良く一生懸命に仕事をする彼は、上司にも気に入られ出世の道へと進みつつあった。
新人二人のなんでも吸収していこうとする姿勢は、あの男そっくりだった。今では、かつての上司があの男を可愛がり、信頼を寄せていた理由がわかる気がした。
しかし過去の自分はどうだ。自分が人に好かれないような陰気な性格をしていることに劣等感を抱き、明るく無邪気な彼を妬んで、とうとう彼を罠に嵌めた。なんの罪もない彼を絶望の淵へと追いやったのだ。
良い部下を持つことで、グランは初めてかつての自分を省みて、今更ながらに悔恨の念を抱くようになった。
結局のところ、あの同僚の男は自分を嵌めたグランからなにもかも取り上げてどん底へ落とし、復讐を果たしたわけだが、純粋だった彼はすっかり変わってしまった。このジャスマン・コートとエミール・アルノーのように無邪気な青年であったのに、裏を探って復讐に燃えるような人間になってしまった。そして彼をそのように変えてしまったのは自分なのだ。


ガチャンと牢獄の鍵が開け放たれる音が地下をこだまする。
「……出ろ。そして今後私の前に現れることは許さない」
牢獄で死刑をひたすらに待つばかりだと思っていた自分に、男はこちらを見ずに冷たく響く声で言い放った。
なぜだ。なぜ殺さずに牢から出した? あの時抱いた疑問は今でもわからない。しかし、彼にとっては苦渋の決断だったのだろうということが、今思い出すと彼の声から強く感じられた――。


「ラグレーンさん? あの……きいていらっしゃいますか?」
ふとグランは思い出から現実に引き戻された。
エミール・アルノーが、困ったように書類を差し出している。その後ろにはジャスマン・コートが大きな封筒と箱をいくつか抱えて眉尻を下げてこちらを見ていた。グランが険しい顔をしているので、少し怯えているようだった。
「……ああ、悪い。もう一度言ってくれるか」
微笑むような柔らかい表情を浮かべて言った。エミールはほっとしたようにジャスマンと顔を見合わせると、安心した様子で話し出した。
「一週間前に話が出ていたクレマン様の件ですが、購入する茶葉の種類の数を……」
真面目な顔で上司を頼りにするその二人を見ながら、彼らは絶対に自分が守らなければならない存在だと強く思うグランなのであった。


「……アンドレ殿、大変恐縮ですが、あなたの家を出る許可をいただけますか」
商品の発注の確認のため事務所にやってきたアンドレに、グランが突然言った。
「え? 家を移るのですか?」
アンドレは目を瞬かせた。
「はい。いつまでもアンドレ殿の私用の家を使わせていただくわけには参りません。部下二人もできて、私自身の収入も安定してきましたので、やはり自身の力で衣食住を立てたく思います」
「そうですか……もちろんかまいませんが、よろしいのですか? 住まいはどちらに?」
「初めは事務所に住もうかと考えていましたが、隣に空き家があったので、そこを借りようと思っています」
「あの小さな住まいに……!? せ、生活はできるのですか?」
貴族であるアンドレは信じられないと首を振ったが、グランは苦笑いを浮かべた。
「造船所で働いていた時の掘っ立て小屋よりずっとましな家ですよ……私は貴族じゃない。見栄を張りたいとは思わないし、今の仕事にふさわしい十分な家に住みたいんです。自分への牽制のためにも。もちろんあの時、あなたが投資だと言って生活の糧を与えてくれたことには感謝しています。造船所での労働は私には向いていませんでしたから」
アンドレは意外そうな顔でグランを見つめていたが、にっこりと笑みを浮かべた。
「わかりました。あなたの意見を尊重しましょう」
グランもほっとしたような笑みを浮かべた。アンドレはそのまま書類に目を落とそうとしたが、すっとグランに鋭い視線を戻した。
「ラグレーン殿、ひとつ伺ってもよろしいですか」
「なんでしょう」
「あなたは……まだ財を築くことが目標なのですか」
アンドレの問いにグランはきょとんとした。
アンドレは続けた。
「以前のあなたは多大な富を持ち、財を築くことを目標としていたはずです。今もそれは変わらないはずでは?」
それはアンドレが一番気にかけている問いだった。自分で家を確保するのは、ドルセット伯爵家の保護下を抜けて、また新たに自分の財を築こうと考えているからだろうか。アンドレはその可能性があることが気にかかっていた。それではこちらが困る。ドルセット伯爵家の未来の財産は彼次第なのだ。なによりエリーゼがどんなに悲しむだろうか。
しかし、グランは目を瞬かせ、少し考えてから答えた。
「ええ、確かに財は築きたいとは思っていますが……自分のためではありません。今の私はアンドレ殿の商会があるからこそ、商人として仕事ができるのですから。とにかく今の目標は商会を広げることと、部下達を育てること。この二点でしょうか」
それは表面的な答えではなく、グランの率直な思いだった。いつのまにか、グランはアンドレに大きな信頼を寄せてくれていたのである。
アンドレは驚いたような表情を浮かべていたが、やがて心から安堵しように嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしたか。どうやらいらぬ心配だったようですね……妹も喜ぶでしょう」