俺の祖父は厳しい人だった。
転勤続きの父さんは、自らの元で息子が育つことに心配を覚える。このまま各地を転々とすると我が子に悪影響をもたらしてしまうのではないか、と。そして家族は祖父の元へと預ける決断をした。
しかしその判断は間違っていた。いや、ある意味それは正解だったのかもしれない。
祖父は武道の達人であり、幼い俺を徹底的にキツく躾けた。昭和特有の厳格な思考がそれを促したのかもしれない。父さんは次男だったため、彼のことを「普通の父親」だと言っていたが、それは全く違かった。
祖父は武道などに全く興味のなかった俺に、1から叩き込んだ。越知家は古くから続く由緒ある家柄で、祖父を含む俺の家はその傍流なのだという。「越知流拳法」という古きから伝わる拳法があり、それを俺は教え込まれたのだ。
しかし、幼い自分にとってそれはただの苦痛に過ぎなかった。
なぜこんなことをしなければならないのか、ここまでしてその先に何があるというのか。毎晩毎晩繰り返すように考えていた。
そして必死に耐え続けてきた俺の精神も限界に達してしまう。
「そうではない!こうやるのだ!もっとシャキっとせい!」
「うるさい!もうこんなのこりごりだ!俺はこんなことをやりたいなんて一言も言っていないだろ!」
俺は家の横に併設されている道場を走って飛び出す。
「おい!やめていいなどと言った覚えはないぞ!」
(もう知るか!こんな家、こっちから出て行ってやる!)
全力で走り出した体が到底長い時間持つはずもない。小学生として持つ体力も相まって2分も立たないうちに足の動きが鈍くなってしまう。
(ぜ、全力で走りすぎたか....)
稽古で足腰を長時間使った後の体は異常に感じられるほど重い。
幸い後ろから追いかけてくる影はなく、安堵の念を覚えたが、体力が切れてトボトボと歩く自分の姿が道の脇にある小さな水たまりに映り、急に自分の身を抱える。
(啖呵を切って出てきたけれど、ここからどうすればいいんだ....)
不安と狭き世界から抜け出してきたという小さな達成感が渦巻く心に戸惑いつつも、日が暮れるその先を目指し、少しずつその歩みを進めていく。
1時間は経っただろうか。無限に続くのではないか、と思ったそんな時間も終わりを告げる。下を向いてトボトボとあてもなく歩いていた自分に方向という概念などなかった。徐々に暗くなる足元に気づき、顔を上げる。
「あ、れ...... ここはどこだ?」
小学校奥の交差点を曲がったことは確かに覚えている。そこまではいつも通り歩く道筋を辿っていただけだ。その先どう言ったかは全く覚えていない。
(ここは....山の中?)
自分がいた場所は周りが木で囲まれた、暗い道だった。その時の俺は、その細い道の脇にランプが何個も置いてあることに気づきはしなかった。日が暮れてそのランプに灯りがともりだすが、そんな微々たる変化、いや、大人にとっては大きな環境の変化に気づくことはできなかった。
(こ、ここで立ち止まっていてもしょうがない!どこか広い通りはないの?!)
周りが木で囲まれた視界で、どちらに行けばいいのかなんて見当もつかない。
迷った時は元来た道を戻れば帰れるとどこかで聞いたような言葉を思い出し、とりあえず元の道に戻ろうと足をあげる。
(帰ったところでどうなるっていうんだ!あのつらい日々がまた永遠と繰り返されるだけなのに!)
自分の無力さと情けなさに押しつぶされそうになる。こんな木に囲まれた人1人入る程度の道に自分の身を置いているだけで体が震えた。同時に涙がポタポタと滴り落ちる。
「お前は男なのだから泣くでない!そのような情けない姿をほかの者に見せるでないぞ!」
(ああそうだよ!俺は情けないよ!1人じゃ何もできないよ!それの何が悪いって言うんだ!)
開き直ったところで気持ちが軽くなるわけもなく、さらに涙が流れ出す。
「あ、あなたは....?」
そんな泣き顔を地面と向ける俺の耳にそんな声が届く。
「......え?」
手のひらを膝上に置いた態勢のまま顔を上げるとそこには俺と同じくらいの歳に見える少女の姿があった。
「き、君は?あっ....」
そう問おうと顔がその少女の顔と同じくらいの高さになるように膝を伸ばす。瞳と瞳があった瞬間、自分の姿を省みる。
(こ、こんな姿、女の子に見せちゃいけない...!)
祖父に言われた言葉が何度も頭の中を反芻し、体が無意識に反応してしまう。顔を背け、袖で目から出る水滴を拭う。
「....あなたは確か隣のクラスの?」
そんな俺の仕草をジッと見つめながら出てきた言葉はそんな小さな疑問であった。
「あ、え?お、同級生...?」
同級生にならなおさらこんなに“恥ずかしい”姿を見せるわけにはいけないと咄嗟に感じ、背筋をピンと伸ばす。
「やっぱりそうだ....なんでこんなところにいるの?」
それはそうだ。一人でこんな暗いところに。
「あ、あれ.....?」
よく見ると周りはランプに照らされて明るかった。そんなことに気づかないほど追い詰められていたのだろうか。
この場に違う人間がいる。そんな些細な事実だけで胸を撫で下ろし、張っていた背筋も緩んでしまう。
「わ、わかんない.... 気づいたらここに....」
「ここウチに繋がる裏道なんだ。よくこんなところ見つけて歩いてきたね...」
俺の服装や、ぐしゃぐしゃな髪を見つめるように確かめ、目を合わせる。
「....なんか嫌なことでもあったの?」
「な、なんでわかるの?」
「そりゃわかるよ。だってあなた、ひどく不安そうな顔をしているじゃない。それに加えてその姿。嫌なことがあって逃げてきたのね」
「そ、そこまで....」
「やっぱりそうなのね。..........そうね、じゃあ少し付いてきてくれる?」
「え、あ、うん...」
そう言って俺の横を通って道の先へと足を進めていく。俺はその後ろを少し躓きながら急いで付いて行った。
少し歩いた先。そこには小さなコテージがあった。
「ここは...?」
「ここは私が嫌なことがあったらいつも来る場所なの。中へ入って?」
「う、うん」
中に入ると、天然木の匂いが鼻へと入ってきた。付いていくと少女はその先へと立ち止まる。
「ほら、あそこを見て?」
少女が指した先にはベランダとでも言うべきだろうか。開放的な広い空間があった。
「あれって...」
その中にポツンとあったのは、机とイスが2つ、そして大きな望遠鏡だった。
「そう、望遠鏡よ。去年の誕生日に買ってもらったの」
「す、すごいね...あんな望遠鏡見たことないよ」
ベランダへと出るよう促され足を外へと出すと、少し冷たい風が体をすり抜ける。目の前にはとても綺麗な空が広がっていた。雲ひとつない、澄んだ空気だった。
少女はそのあとに付いてくるように出てきて、ベランダにある望遠鏡を徐に弄りだす。
「よしっ、これでいいかな」
そんな声を出して、俺の方へと顔を向けてきた。
「ほら、これを覗いて見て?」
少女がさっきまで立っていた位置に来るように言ったので、そこに立つ。そして、望遠鏡に軽く手を添えて中身を覗くと。
「うわぁ.....!」
第一声としての出たのは、意味を持たない感嘆の声だった。
「すごい....すごいよ!こんなに...こんなに綺麗なものがあるなんて!」
俺はその光景を見た途端引き込まれて、目を光らせて横に立つ少女にその綺麗な星空を見たことを伝えようとする。
「こんなに綺麗な空を見ると悩んでいたことがちっぽけに感じられるでしょ?」
「うん...!」
さっきまでの孤独感は何処へ。静かで落ち着いた夜空の中に、無数の大小様々に存在する星々。それは確かな賑わいを自分の心へと伝えていた。
「あなたがなんで悩んでいるのか教えて?
越知くん」
「あっ...そういえば君の名前...」
「私?私は坪倉春乃。春乃でいいよ」
「春乃....じゃあ俺のことも涼磨でいいよ!」
「そう、じゃあそう呼ばせてもらう。で、なんで悩んでいるの?」
「あ、うん」
そして俺はここへと至った事の顛末を話し出した。
俺が話している間、春乃は俺の話を静かに、頷きながら聞いてくれた。
「.......そっか。大変なんだね。じゃあさ。時々ここに来ない?私と一緒に星を見に。どう...かな?」
その上目遣いは正直狡い。
(そんなこと言われて...断れるはずないじゃないか)
「うん... じゃあ時々来るよ!君と一緒に星を見るために!そうすればどんな嫌なことがあっても乗り越えられる気がするんだ!」
「ほ、ホントに?嘘じゃないの?」
「君が言い出したんだろ?当たり前じゃないか」
「そ、そうね。私、あんまり人と遊ばせてもらえないから... 家内が過保護でね、あんまり外に一人で出すのを好まないの。そういう何かに囚われているって少し私たち似ているのかもね」
(似ている....似ている、か)
「そうかもしれないね」
春乃がハハッっと笑い出し、俺もそれにつられて笑い出した。
「そうだ、少し肌寒いし温かい紅茶でも入れるね」
「あ、うん。ありがとう」
そう言ってコテージの中へと向かう春乃を横目に椅子へと腰掛けると、緊張の糸が切れたかのように力が抜けて、目の前が歪み、やがて真っ暗になった。
(ああ、疲れかな)
そんな思考を頭に残したまま、眠りへと落ちていった。
転勤続きの父さんは、自らの元で息子が育つことに心配を覚える。このまま各地を転々とすると我が子に悪影響をもたらしてしまうのではないか、と。そして家族は祖父の元へと預ける決断をした。
しかしその判断は間違っていた。いや、ある意味それは正解だったのかもしれない。
祖父は武道の達人であり、幼い俺を徹底的にキツく躾けた。昭和特有の厳格な思考がそれを促したのかもしれない。父さんは次男だったため、彼のことを「普通の父親」だと言っていたが、それは全く違かった。
祖父は武道などに全く興味のなかった俺に、1から叩き込んだ。越知家は古くから続く由緒ある家柄で、祖父を含む俺の家はその傍流なのだという。「越知流拳法」という古きから伝わる拳法があり、それを俺は教え込まれたのだ。
しかし、幼い自分にとってそれはただの苦痛に過ぎなかった。
なぜこんなことをしなければならないのか、ここまでしてその先に何があるというのか。毎晩毎晩繰り返すように考えていた。
そして必死に耐え続けてきた俺の精神も限界に達してしまう。
「そうではない!こうやるのだ!もっとシャキっとせい!」
「うるさい!もうこんなのこりごりだ!俺はこんなことをやりたいなんて一言も言っていないだろ!」
俺は家の横に併設されている道場を走って飛び出す。
「おい!やめていいなどと言った覚えはないぞ!」
(もう知るか!こんな家、こっちから出て行ってやる!)
全力で走り出した体が到底長い時間持つはずもない。小学生として持つ体力も相まって2分も立たないうちに足の動きが鈍くなってしまう。
(ぜ、全力で走りすぎたか....)
稽古で足腰を長時間使った後の体は異常に感じられるほど重い。
幸い後ろから追いかけてくる影はなく、安堵の念を覚えたが、体力が切れてトボトボと歩く自分の姿が道の脇にある小さな水たまりに映り、急に自分の身を抱える。
(啖呵を切って出てきたけれど、ここからどうすればいいんだ....)
不安と狭き世界から抜け出してきたという小さな達成感が渦巻く心に戸惑いつつも、日が暮れるその先を目指し、少しずつその歩みを進めていく。
1時間は経っただろうか。無限に続くのではないか、と思ったそんな時間も終わりを告げる。下を向いてトボトボとあてもなく歩いていた自分に方向という概念などなかった。徐々に暗くなる足元に気づき、顔を上げる。
「あ、れ...... ここはどこだ?」
小学校奥の交差点を曲がったことは確かに覚えている。そこまではいつも通り歩く道筋を辿っていただけだ。その先どう言ったかは全く覚えていない。
(ここは....山の中?)
自分がいた場所は周りが木で囲まれた、暗い道だった。その時の俺は、その細い道の脇にランプが何個も置いてあることに気づきはしなかった。日が暮れてそのランプに灯りがともりだすが、そんな微々たる変化、いや、大人にとっては大きな環境の変化に気づくことはできなかった。
(こ、ここで立ち止まっていてもしょうがない!どこか広い通りはないの?!)
周りが木で囲まれた視界で、どちらに行けばいいのかなんて見当もつかない。
迷った時は元来た道を戻れば帰れるとどこかで聞いたような言葉を思い出し、とりあえず元の道に戻ろうと足をあげる。
(帰ったところでどうなるっていうんだ!あのつらい日々がまた永遠と繰り返されるだけなのに!)
自分の無力さと情けなさに押しつぶされそうになる。こんな木に囲まれた人1人入る程度の道に自分の身を置いているだけで体が震えた。同時に涙がポタポタと滴り落ちる。
「お前は男なのだから泣くでない!そのような情けない姿をほかの者に見せるでないぞ!」
(ああそうだよ!俺は情けないよ!1人じゃ何もできないよ!それの何が悪いって言うんだ!)
開き直ったところで気持ちが軽くなるわけもなく、さらに涙が流れ出す。
「あ、あなたは....?」
そんな泣き顔を地面と向ける俺の耳にそんな声が届く。
「......え?」
手のひらを膝上に置いた態勢のまま顔を上げるとそこには俺と同じくらいの歳に見える少女の姿があった。
「き、君は?あっ....」
そう問おうと顔がその少女の顔と同じくらいの高さになるように膝を伸ばす。瞳と瞳があった瞬間、自分の姿を省みる。
(こ、こんな姿、女の子に見せちゃいけない...!)
祖父に言われた言葉が何度も頭の中を反芻し、体が無意識に反応してしまう。顔を背け、袖で目から出る水滴を拭う。
「....あなたは確か隣のクラスの?」
そんな俺の仕草をジッと見つめながら出てきた言葉はそんな小さな疑問であった。
「あ、え?お、同級生...?」
同級生にならなおさらこんなに“恥ずかしい”姿を見せるわけにはいけないと咄嗟に感じ、背筋をピンと伸ばす。
「やっぱりそうだ....なんでこんなところにいるの?」
それはそうだ。一人でこんな暗いところに。
「あ、あれ.....?」
よく見ると周りはランプに照らされて明るかった。そんなことに気づかないほど追い詰められていたのだろうか。
この場に違う人間がいる。そんな些細な事実だけで胸を撫で下ろし、張っていた背筋も緩んでしまう。
「わ、わかんない.... 気づいたらここに....」
「ここウチに繋がる裏道なんだ。よくこんなところ見つけて歩いてきたね...」
俺の服装や、ぐしゃぐしゃな髪を見つめるように確かめ、目を合わせる。
「....なんか嫌なことでもあったの?」
「な、なんでわかるの?」
「そりゃわかるよ。だってあなた、ひどく不安そうな顔をしているじゃない。それに加えてその姿。嫌なことがあって逃げてきたのね」
「そ、そこまで....」
「やっぱりそうなのね。..........そうね、じゃあ少し付いてきてくれる?」
「え、あ、うん...」
そう言って俺の横を通って道の先へと足を進めていく。俺はその後ろを少し躓きながら急いで付いて行った。
少し歩いた先。そこには小さなコテージがあった。
「ここは...?」
「ここは私が嫌なことがあったらいつも来る場所なの。中へ入って?」
「う、うん」
中に入ると、天然木の匂いが鼻へと入ってきた。付いていくと少女はその先へと立ち止まる。
「ほら、あそこを見て?」
少女が指した先にはベランダとでも言うべきだろうか。開放的な広い空間があった。
「あれって...」
その中にポツンとあったのは、机とイスが2つ、そして大きな望遠鏡だった。
「そう、望遠鏡よ。去年の誕生日に買ってもらったの」
「す、すごいね...あんな望遠鏡見たことないよ」
ベランダへと出るよう促され足を外へと出すと、少し冷たい風が体をすり抜ける。目の前にはとても綺麗な空が広がっていた。雲ひとつない、澄んだ空気だった。
少女はそのあとに付いてくるように出てきて、ベランダにある望遠鏡を徐に弄りだす。
「よしっ、これでいいかな」
そんな声を出して、俺の方へと顔を向けてきた。
「ほら、これを覗いて見て?」
少女がさっきまで立っていた位置に来るように言ったので、そこに立つ。そして、望遠鏡に軽く手を添えて中身を覗くと。
「うわぁ.....!」
第一声としての出たのは、意味を持たない感嘆の声だった。
「すごい....すごいよ!こんなに...こんなに綺麗なものがあるなんて!」
俺はその光景を見た途端引き込まれて、目を光らせて横に立つ少女にその綺麗な星空を見たことを伝えようとする。
「こんなに綺麗な空を見ると悩んでいたことがちっぽけに感じられるでしょ?」
「うん...!」
さっきまでの孤独感は何処へ。静かで落ち着いた夜空の中に、無数の大小様々に存在する星々。それは確かな賑わいを自分の心へと伝えていた。
「あなたがなんで悩んでいるのか教えて?
越知くん」
「あっ...そういえば君の名前...」
「私?私は坪倉春乃。春乃でいいよ」
「春乃....じゃあ俺のことも涼磨でいいよ!」
「そう、じゃあそう呼ばせてもらう。で、なんで悩んでいるの?」
「あ、うん」
そして俺はここへと至った事の顛末を話し出した。
俺が話している間、春乃は俺の話を静かに、頷きながら聞いてくれた。
「.......そっか。大変なんだね。じゃあさ。時々ここに来ない?私と一緒に星を見に。どう...かな?」
その上目遣いは正直狡い。
(そんなこと言われて...断れるはずないじゃないか)
「うん... じゃあ時々来るよ!君と一緒に星を見るために!そうすればどんな嫌なことがあっても乗り越えられる気がするんだ!」
「ほ、ホントに?嘘じゃないの?」
「君が言い出したんだろ?当たり前じゃないか」
「そ、そうね。私、あんまり人と遊ばせてもらえないから... 家内が過保護でね、あんまり外に一人で出すのを好まないの。そういう何かに囚われているって少し私たち似ているのかもね」
(似ている....似ている、か)
「そうかもしれないね」
春乃がハハッっと笑い出し、俺もそれにつられて笑い出した。
「そうだ、少し肌寒いし温かい紅茶でも入れるね」
「あ、うん。ありがとう」
そう言ってコテージの中へと向かう春乃を横目に椅子へと腰掛けると、緊張の糸が切れたかのように力が抜けて、目の前が歪み、やがて真っ暗になった。
(ああ、疲れかな)
そんな思考を頭に残したまま、眠りへと落ちていった。
