誰かのために、たったひとつの恋で、変われことは美しいことです。あなたも恋をしてみませんか――。
遥が読んでいた本のページの最後に記された言葉である。彼女は本を閉じ、溜息を吐いた。この本に彼女の大切な時間を費やしてしまった事を後悔したのだろう。いや、後悔しているに違いない。
彼女は立花 遥。彼氏いない歴イコール年齢という、女子高校生にしてありえない能力の持ち主である。
恋だの愛だの本当に下らない――。
彼女は心の中でそっと呟く。彼女はこれでもピチピチの女子高校生である。まぁ、実質それは名前だけで、中身は氷のように冷え切っているが。
今どきの女子高校生と言えば休憩時間に寄って集っては誰がかっこいいとか、誰が好きだとかばかり。遥はそんな空気が大嫌いであった。常々、彼女は女子高校生の皮を被ったババアなのではないと思ってしまう。いや、何でもない。


「 死 ね っ ! 」
言葉を発した少年の目は確かに遥を軽蔑したかのように冷たかった。遥は横断歩道を前に口を微かに開け、何かを発するわけでもなく、ただ雨音に隠れるくらいの溜息のような小言を漏らす。
ああ、やっぱりね――。
さっきまでやけに耳についていた雨音は彼女の耳には届かなかった。じっと微動だにせず、みるみる小さくなっていく彼の後ろ姿を眺めていた。彼女は特別嫌なことをした訳では無い。ただ〝好き〟の二文字を表に出しただけなのだ。こんな残酷な告白があるだろうか。
しかし、彼女は涙を一粒も流さなかった。こんな振られ方嬉しい人なんて居ないはずだ。それなのに、彼女は今にも笑ってしまいそうな顔をしていた。
これが彼女にとっての初めての初恋であり、初告白であり、失恋であった。
おわかりいただけただろうか?これが彼女にとっての初恋兼、告白兼、失恋であるのだ!そんなの誰が信じられるだろうか。
数分立ち止まり、慰めるかのように遅れて雨音が耳に入ってくる。空を見上げると、鉛色の渦が広がっていた。
そう、あの日はそんな空だった。


「は…か…はる…る…か、遥!」
ハッと目が覚めた遥に、綺麗にオレンジ色で彩られる教室が視界に飛び込んできた。
「遥、大丈夫…?」
目の前には部活カバンを背負った華が、眉間にシアを寄せ、立っていた。どうやら、華の部活が終わるのを待っている間にすっかり眠りについてしまったらしい。しかも、華が不安そうにしているということは酷く魘されていたのだろう。今の遥の表情はまるで死んだ魚、いや蛆虫のような酷い顔をしている。
「また思い出したの…?もう前の話でしょ?遥が思い詰めることは無いし、悪いのは…」
「ううん。何でもないよ!悪い夢を見ただけだから。もう帰ろう?」
親友である華に変な心配をさせてしまうのは気が引ける、と思った遥は咄嗟に笑顔を作る。

二人で並んで歩いていると頭上に霧のような小雨が降り注ぐ。それに応えるように髪の毛先が割れていく。それはまるで枝のように。
「急に降っちゃったね…。私、折りたたみ傘あるから送っていこうか?」
「まだ小雨だし大丈夫!走って帰るよ。」
「そっか。それじゃ、またね。」
華は一瞬心配そうな顔をしたが、すぐに微笑んで遥に手を振る。可愛いなぁ、と遥は心底思った。指を通せば絡まることを知らないツヤツヤな髪の毛。光を吸収して眩く輝く綺麗な瞳。おまけに整った顔立ち。所謂、容姿端麗と言うやつだ。
私も華みたいだったら良かったのに――。
遥は何だかそんな華と並んでいる自分が、怠っているのではないかとつい思ってしまう。
気が付くと大粒の雨が激しく降っていた。遥は走って目の前にあるバス停で雨宿りをした。ポケットからハンカチを出し、制服についた水滴を軽く払う。
どうしてこんな日に雨が降るのだろう。あの夢を見た後だから、不吉な気がしてならない。
やれやれと三度目のため息を吐いていると、遠くから足音が近付いてくる。彼女はグッと身構えた。
「警戒しないで下さい。怪しい者では無いです。」
遥と同い年ぐらいだろうか。学ランを身に纏う少年は柔らかい口調で言う。彼は深々と帽子を被っており、ハッキリと顔が見えない。というか、少年…怪しいものでないと言っている時点で怪しい気もするが。
「怪しいです。何の用ですか。」
勿論、彼女は警戒していた。そりゃいきなり近付いてきて、警戒するなと言われたら余計に警戒するだろう。少女よ、無理もない。
「これ、使ってください。先程からシャツからブラが透けており、僕の目のやり場が…」
「どこ見てるんですか!この変態!結構です。」
無論、彼女に賛成である。このスケベ野郎。おっと、失礼。彼女は彼を酷く睨んだ。
「真に受けないでください。冗談ですよ。でも、風邪を引いてしまいますから…」
彼は力強く。でも、優しく遥の手に傘を握らせた。彼の暖かい体温が彼女の手に伝わってくる 。
彼は彼女が傘を掴んだ瞬間、雨の中へ消えていった。ハッと気が付いた遥はまるで梅干しのような渋い顔をする。彼女の手にはビニール傘があった。見知らぬ人に借りを作ってしまえば、いつ返せる日が来るか分からない。しかし、彼女は変に几帳面である。だから、その借りを返すまで気が済まないはずだ。彼女はそれを自身で理解しており、それがまた彼女にとっても面倒であった。だから断るつもりでいたのだが。

受け取ってしまった。

単なるビニール傘だが、違うところを上げるとするならば、取っ手部分に〝大山 幸希〟と記してあることである。
「大山幸希、かぁ…変態そうな名前…」
おい小娘。それでは、全国の大山幸希が可哀想である。
彼女は傘を開き、微笑みながらバス停を後にした。