『………す』
『え?』

ちょうど階段を駆け下りてきた社員の足音で、拓真君の声がかき消され、もう一度聞き返す。

『おはようございます…森野さん』

ちいさな声で、それでもハッキリと聞き取れた。


”森野さん”


拓真君の口から出た、自分の呼び名の違和感。

それは、一週間前の…この一年の間、ずっと同僚として知ってる”時枝君”のままなのに、そのゆっくりとオドオドしたしゃべり方も、何故だか、まるで知らない人のように感じてしまう。

思わず、かける次の言葉を失い、黙ってしまうと、拓真君の方から促された。

『…その…書類…』
『えっ…あ、うん、これ立花さんから』

書類を手渡すと、『どうも』と口に出しながら、受け取ってくれる。

その表情は、長めの前髪と分厚い眼鏡に隠れて、読み取れない。

『あ、あの、時枝君昨日は…』
『すみません、僕、急いでこれを届けなきゃいけないので』

拓真君はそう言うや否や、くるりと向きを変え、まるで逃げるように階段を上っていってしまう。

ちょうど、階段の上から複数の社員が談笑しながら降りてきて、その団体を器用に避けるように上っていく。