アヴェルスの部屋に着くまで、彼は体調不良など微塵も表に出さず、反吐がでるほど完璧な王子様であった。
 その姿が妙に心を揺さぶって、エルトリーゼは腑に落ちない気分で彼をベッドに寝かせて、自分は傍まで椅子を運んできてそこにちょこんと座った。
「あんた、いつもそんな調子なのね」
「何が?」
 気だるげなアヴェルスに、エルトリーゼは目を閉じて息を吐く。
「完璧超人なのねって話よ! 息が詰まるじゃない、そんなふうじゃあ。あんたの体調不良を見抜ける医者なんて居ないに違いないわ!」

「……まぁ、顔色とかも魔法で誤魔化してるし」
 その言葉を聞いた瞬間、眩暈を覚えた。いったいどこまで完璧に作り上げられた「顔」なのだろう。アヴェルスという人格、人間。
 その本性を知っているのは、一握りの人間だけで、その中に自分も入っているのだと思うと少しだけ、少しだけ嬉しく思う。
 彼はユーヴェリーの前でさえ……彼女が本性に気づいているかはともかく、演技をしているのだから。ある意味、それだけ心を許してくれているのだろう。あるいは、許したほうがマシだと思ったのかもしれない。
 エルトリーゼは昔から、アヴェルスという人間の不自然さに気づいていたから。演技をされたところで白々しいだけだ。

「手……を」
 アヴェルスが小さく呟いたので首を傾げる。
「おまえの手に、触れていたい」
「な……な、なななななっ」
 甘えるような声音に思わず恥ずかしさが込みあげてくる。けれど、じっとこちらを見つめている紫の双眸に気づいてエルトリーゼはおずおずと彼の手に手を重ねた。
「……こういうふうに、他人に甘えるのは初めてだ。ああ、でも、おまえは妻なんだから、何もおかしくないのか……」
 眠そうなアヴェルスの瞳を見つめて、エルトリーゼはこほんと咳払いをした。

「私は妻だなんて納得なんてしてないけどね! いいからもう休みなさいよ。あんた、働きすぎなんでしょ、どうせ」
「……もう少し、おまえと話をしたいんだ。こんなときでもなけりゃ、おまえは俺のこと突き飛ばして会話にならないだろ」
 思わず言葉に詰まる。確かに。
 アヴェルスが弱っているから、ついつい庇護欲を掻きたてられているが、そうでなければまともな会話は成立しないかもしれない。
「おまえがもともと居た世界は……確か魔法なんてなくて、科学で発展した世界だったな」
「知っているの?」
 アヴェルスは小さく頷いた。

「そんなに……戻りたいのか? その場所に、その男のところに」
「――や、約束をしたの。花火を見に行こうって。でも私、そのあとすぐに死んじゃって、叶わなかったけど」
 エルトリーゼの言葉に、彼は瞼を閉ざして眉を顰めた。
 あまりよい気分ではないのだろう、自分のことなど好きでもなんでもないくせにと言い聞かせていないと、余分な勘違いをして、あとで酷く傷つくことになりそうだ。
「不思議の湖は仮想現実でしかない、おまえの記憶を元に構築された仮初の世界だ。その男にもう一度会えるわけじゃない」
「わ、分かってる……つもり。でも、どうして城にそんなものがあるの?」
 話題を少し変えようとエルトリーゼが問うと、アヴェルスは嫌々そうに答えた。

「おまえみたいに、死んだ恋人に逢いたいって女王が昔居たんだよ。その女が、中庭に作ったのが不思議の湖だ。結局そいつは無責任に立場を放りだして、不思議の湖に入ったきり戻って来なかった」
 アヴェルスの静かな言葉を聞いて、エルトリーゼの中に疑問がうかぶ。
 思えば、場所は知っているが、戻り方を知らない。
「どうして戻って来なかったの?」
「……さあ? 帰りたくなかったんじゃないのか」
 また首を傾げるエルトリーゼに、アヴェルスは小さくため息を吐いた。

「行くつもりでいるな、おまえ」
「ま、まさか、そんなわけないじゃない」
 無理に笑顔を作ったが、笑顔に見えているかどうかは疑問だ。
「不思議の湖に入ったら、心から戻りたいと願うまで出て来れないぜ。おまえも、いつぞやの女王のように立場も責任も捨てて、戻って来ないんだろうな」
 諦めたように笑うアヴェルスに、少しだけ良心が痛む。
 戻って来ないだろうか? 自分は。そこが偽りの現実であると分かっていても。何一つ、本物などないと分かっていても?
 重なる手から伝わるぬくもり、彼は今何を思っているのだろう。本当にエルトリーゼを大切にしようだなんて思っているのだろうか? それとも、それさえも嘘だろうか?

「わ、私は……ちょっとだけ、ちょっとのあいだだけ、戻りたいだけなのよ。未練というか……それを晴らしたいだけで」
「仮想の現実で、か?」
「う……」
 それを言われてしまうとそこまでだ。
 仮にシヅルにさようならを告げたとしても、そこに居る彼ははりぼての存在なのだ。
 であれば、やはり自分はシヅルに逢いたいのだろう。
 だんだんとアヴェルスへのうしろめたさのような感情が湧いてくる。
 彼が本気で自分などを好きになるはずがないのだから、そう気にするようなことでもない……とは、思うのだが。

「もう……いい。好きにするといい。俺は何も言わない」
「アヴェルス……?」
 視線が逸らされて、アヴェルスは夜の訪れた窓の外を見やってから瞳を閉じた。
「どんなに止めてもおまえは行くだろ、だったら、行って確かめてくるといい。そこが虚しいだけの世界か、それともおまえが望んだ世界か」
「妻の失踪なんてスキャンダルは嫌なんじゃなかったの?」
「あぁ、嫌だね。おまえのせいで俺の人生に傷がつくわけだ……だから、本当はどこにも行かないでほしい」
 拗ねたような言葉に、エルトリーゼはぽかんと口をあけて双眸を見開いていた。
 だがすぐに我を取り戻す。馬鹿馬鹿しい、アヴェルスが自分のことを本当にどうこう思うはずがない。おそらく彼は自分のように幼さの残る容姿は好きではないのだろうし。
 残念ながら、エルトリーゼにはユーヴェリーのような大人っぽさはない。アヴェルスより一歳上だが、彼より年下に見られることもしばしばだ。

「まったく、口ばっかり達者な男ね」
 この不自然な空気を払拭しようと冗談めかして言ったのだが、エルトリーゼの小さな手をアヴェルスの大きな手が握る。
「……ユーヴェリーのことが好きだったのは事実だ。認めよう。だけど、昔から彼女にとって俺は弟でしかないんだ。それも分かってた、だから、とっくに諦めてたんだよ」
 もう一度紫の双眸がこちらに向いて、エルトリーゼは奇妙に高鳴る鼓動に混乱していた。
 愚かしい、こんな簡単にころっと騙されてしまうなんて。アヴェルスはひとを騙す方法なんていくらでも持っているだろう。
 それなのにこれでは、ロレッサのことをとやかく言えるものではない。

「だから、ユーヴェリーが結婚するって聞いたときも……つらかったけど、驚かなかったよ。それに、あいつにも……レディウスにも言われたけど、妻の前で生涯演技をする必要がないんだから、おまえは俺にとって恵まれた相手だろう」
 聞いているだけで切なくなるような言葉だった。だが、それとこれとは別だ。
「不細工だって言ったくせに」
「……根に持つな、おまえ。悪かったよ、スレてる理由が分かれば可愛いと思える」
「スレてる?」
 エルトリーゼの言葉に、アヴェルスはにやりと笑った。

「子供の頃から言動が大人びてて、男の扱いに手馴れてそうなところ、何かあるんだろうとずっと思ってたんだよ。愛人でも居るのかと思ったが、転生者だったとはね」
 プツッとエルトリーゼの理性が一つ切れる。
「誰が愛人なんか作りますか!! あなたと一緒にしないで!!」
「そういうとこ、おまえも失礼だろ。俺だって作らねーよ」
 確かに。自分も不細工、以上に酷い言葉をアヴェルスにかけているかもしれない。
 そこを指摘されてしまうとぐうの音も出ない。
「あなたがそんなふうに素直だと、こっちも調子が狂うわ」
 ふうと息をついて、エルトリーゼは少しだけ椅子から立ちあがって、彼の額に手をあてる。

「ほら、もう休みなさいよ。私の前では無理なんてする必要ないんだから」
「……ああ」
 アヴェルスが眠りに落ちていくのを見て、エルトリーゼは気恥ずかしさを感じながらゆっくりと手を離そうとしたのだが。
「もう少し……傍に居てくれないか、眠るまででいい」
「っ……ば、馬鹿じゃないの! 今日のあなた本当におかしいわよ!」
 けれど、その言葉はすでに届いていないようだった。
 すうすうと寝息をたてているアヴェルスに、エルトリーゼは頬を真っ赤に染めて首を横に振った。

 演技だ、演技に決まっている。そう思わないと、きっと本当に演技だったときに耐えられない。
 それでも、しばらくはアヴェルスの寝顔をじっと見つめていた。
 綺麗な顔をしていると思う、黙っていれば。黙っていれば、だ。大切なことなので二度言う。
 アヴェルスのことが嫌いなわけではない、今は。彼の言葉が偽りか真実かはまだ分からないが、それでも、エルトリーゼのことを想ってくれているのは事実だろう。それが仮に嘘だったとしても、近づこうとしてくれてはいる。
 それでも、戻れるものなら、逢えるものなら、もう一度だけシヅルに逢いたかった。