ユーヴェリーが結婚すると聞いたときまで、彼は確かに彼女を好いていた。
だが、彼女の幸福の邪魔をするのは本意ではない。だからアヴェルスはあの時点で、エルトリーゼを大切にしようと……思ったのだ。頭では。
だが、エルトリーゼときたら何から何まで気に入らないことばかりだった。
前世の記憶を持っているのか、前世の恋人を想うようなふしがたびたびあるし、それだけでアヴェルスとしては嫌な気分になるものだ。
(強いてよかった点を述べるなら、俺がそいつに似ていなかったことか)
どうやらエルトリーゼ曰く、自分はド外道で最低で最悪の男。
一方、シヅルという前世の恋人は誠実で優しい人間だったようだから。
(面影まで重ねられた日には耐え難い。そう思えば、まだマシなところだろ)
アヴェルスは泣き疲れて眠ってしまったエルトリーゼを残して寝室を出て、書斎へと向かった。仕事も立て込んでいるのだ。
書斎の手前に着くと、部下であるレディウスが扉の前に控えていた。黒い髪に青い瞳を持つ騎士は礼をして、口を開く。
「殿下、エルトリーゼ様は?」
「聞かないでくれよ。言わなくても分かるだろ」
レディウスは唯一アヴェルスが素性を明かしている騎士だ。それだけ信頼できるし幼馴染でもある。
「話なら部屋で」
アヴェルスはそう言って先に書斎に入り、椅子に座った。
あとから入ってきたレディウスは閉めた扉の前で困ったように笑った。
「エルトリーゼ様は鋭くていらっしゃる、殿下の素顔に気づかれるとは」
「迷惑だ。ああ、迷惑だとも、最初から最後まで騙されていればいいものを」
アヴェルスが最初に素顔を明かしたのは、最初からエルトリーゼは気づいていると分かっていたからだ。分かっている相手にまで演技をしてやる必要もない。滑稽だ。
「私は安心いたしましたよ。殿下が生涯、お妃様の前で演技をし続けなければならないと思うとつらいですし」
それはまあ確かにそうだ。そう思いながらアヴェルスは小さくため息を吐く。
「レディウス、エルトリーゼを中庭の湖にだけは近づけるなよ。一度入ったら二度と出て来ないに違いない」
しかし今はこちらの問題のほうが重要だと、言葉にするとレディウスは首を傾げた。
「不思議の湖ですか? あのようなところになぜ?」
「さあ? 未練のある時間があるらしい、それしか知らない」
アヴェルスのそっけない言葉を聞いて、レディウスは「ふむ」と呟いた。
「殿下が妬かれるということは、エルトリーゼ様には想うかたがいらっしゃったと」
「おまえまで俺をイラつかせる気か? そういうのはあいつだけで充分だ」
嫉妬だと認めたくはなかったが、自覚はしている。
エルトリーゼと夫婦になった以上、自分は彼女を愛するよう務めるが、彼女の心が別にあることは事実だ。それがどうしようもなく苛立たしい。
「心配なのですよ、殿下はそういうふうで居てお優しいところもありますから」
「どういうふうだって言いたいんだ?」
にっこり微笑んで問うアヴェルスに、レディウスもにこりと微笑んで答える。
「言わずともお分かりでしょう」
性格がよくないのは自覚しているので、特に腹の立つことでもない。
「とにかく、新月には気をつけてくれ。あそこに入れば、本人が「戻りたい」と心から願うまで戻れない。あいつは……きっと戻ってこない、自分の意思では」
「殿下……」
レディウスが悲しげに眉を寄せると、アヴェルスはフンと小さく鼻を鳴らす。
「別に、あいつが戻ってこないことはどっちでもいいが、迷惑をかけられるのはたくさんだってことだよ。式でのあいつがあまりにぎこちなかったせいで、うまくいってないんだと思った奴らが自分の娘をと口喧しいし。俺は側室なんて取る気はない、ユーヴェリーにそんな男だと思われたくないからね」
「殿下がもう少し素直に接すれば、エルトリーゼ様も考えを改められるのでは?」
レディウスのもっともな言葉に、アヴェルスは紫の瞳を細めて彼を睨みつけた。
「いちいち余分なことばっかり言うな、今日のおまえは」
「それはそうです、殿下がいつになく荒れていらっしゃるのですから」
その言葉を聞いて、アヴェルスは大きくため息を吐いて背もたれに寄りかかった。
「そりゃそうだろ、あいつ、俺を拒んで昔の恋人に助けを求めたくらいなんだからな」
「おや……それはそれは」
あのときは無理矢理抱いてやろうと思ったが、結局、初めて見る彼女の泣き顔に驚いてしまった。
いつも強気で、頭突きをしてくるほどのじゃじゃ馬だというのに、あんなふうに泣くのだと。
「あぁクソ、あいつの話はやめだ、イライラする。俺は仕事を進める」
「あまり無理をなさらぬよう、殿下」
「分かってる」
レディウスが出て行ったあとも、アヴェルスの心を黒く淀んだものが満たしていた。
いつもいつも、欲しいものは何も手に入らない。
必要ないものは山ほど手に入るというのに。
ユーヴェリーにとって自分は弟のような存在であった、それは知っている。
だからとうに諦めていた恋だった。
だがエルトリーゼは前世の恋人ときた。アヴェルスとしては馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
(前世って……もう終わった生涯の話だろ、それなのに……)
それなのに、エルトリーゼは助けを求めるのだ、そのとうに離れ離れになった恋人に。
(しかも、年下は好みじゃないだの、ド外道だの、好き放題言いやがって)
特に、年下という言葉がアヴェルスには引っかかった。こればかりは努力でどうにかできる問題ではない。
(年上だって言ってもたかが一歳じゃないか)
とはいえ、自分が年下であるのは事実であり、認めざるをえない。
(ああ、クソ、本っ当にムカつくなあの女……!)
アヴェルスは目の前の書類を睨みつけ、それに集中しようとエルトリーゼのことを頭の隅に押しやった。
だが、彼女の幸福の邪魔をするのは本意ではない。だからアヴェルスはあの時点で、エルトリーゼを大切にしようと……思ったのだ。頭では。
だが、エルトリーゼときたら何から何まで気に入らないことばかりだった。
前世の記憶を持っているのか、前世の恋人を想うようなふしがたびたびあるし、それだけでアヴェルスとしては嫌な気分になるものだ。
(強いてよかった点を述べるなら、俺がそいつに似ていなかったことか)
どうやらエルトリーゼ曰く、自分はド外道で最低で最悪の男。
一方、シヅルという前世の恋人は誠実で優しい人間だったようだから。
(面影まで重ねられた日には耐え難い。そう思えば、まだマシなところだろ)
アヴェルスは泣き疲れて眠ってしまったエルトリーゼを残して寝室を出て、書斎へと向かった。仕事も立て込んでいるのだ。
書斎の手前に着くと、部下であるレディウスが扉の前に控えていた。黒い髪に青い瞳を持つ騎士は礼をして、口を開く。
「殿下、エルトリーゼ様は?」
「聞かないでくれよ。言わなくても分かるだろ」
レディウスは唯一アヴェルスが素性を明かしている騎士だ。それだけ信頼できるし幼馴染でもある。
「話なら部屋で」
アヴェルスはそう言って先に書斎に入り、椅子に座った。
あとから入ってきたレディウスは閉めた扉の前で困ったように笑った。
「エルトリーゼ様は鋭くていらっしゃる、殿下の素顔に気づかれるとは」
「迷惑だ。ああ、迷惑だとも、最初から最後まで騙されていればいいものを」
アヴェルスが最初に素顔を明かしたのは、最初からエルトリーゼは気づいていると分かっていたからだ。分かっている相手にまで演技をしてやる必要もない。滑稽だ。
「私は安心いたしましたよ。殿下が生涯、お妃様の前で演技をし続けなければならないと思うとつらいですし」
それはまあ確かにそうだ。そう思いながらアヴェルスは小さくため息を吐く。
「レディウス、エルトリーゼを中庭の湖にだけは近づけるなよ。一度入ったら二度と出て来ないに違いない」
しかし今はこちらの問題のほうが重要だと、言葉にするとレディウスは首を傾げた。
「不思議の湖ですか? あのようなところになぜ?」
「さあ? 未練のある時間があるらしい、それしか知らない」
アヴェルスのそっけない言葉を聞いて、レディウスは「ふむ」と呟いた。
「殿下が妬かれるということは、エルトリーゼ様には想うかたがいらっしゃったと」
「おまえまで俺をイラつかせる気か? そういうのはあいつだけで充分だ」
嫉妬だと認めたくはなかったが、自覚はしている。
エルトリーゼと夫婦になった以上、自分は彼女を愛するよう務めるが、彼女の心が別にあることは事実だ。それがどうしようもなく苛立たしい。
「心配なのですよ、殿下はそういうふうで居てお優しいところもありますから」
「どういうふうだって言いたいんだ?」
にっこり微笑んで問うアヴェルスに、レディウスもにこりと微笑んで答える。
「言わずともお分かりでしょう」
性格がよくないのは自覚しているので、特に腹の立つことでもない。
「とにかく、新月には気をつけてくれ。あそこに入れば、本人が「戻りたい」と心から願うまで戻れない。あいつは……きっと戻ってこない、自分の意思では」
「殿下……」
レディウスが悲しげに眉を寄せると、アヴェルスはフンと小さく鼻を鳴らす。
「別に、あいつが戻ってこないことはどっちでもいいが、迷惑をかけられるのはたくさんだってことだよ。式でのあいつがあまりにぎこちなかったせいで、うまくいってないんだと思った奴らが自分の娘をと口喧しいし。俺は側室なんて取る気はない、ユーヴェリーにそんな男だと思われたくないからね」
「殿下がもう少し素直に接すれば、エルトリーゼ様も考えを改められるのでは?」
レディウスのもっともな言葉に、アヴェルスは紫の瞳を細めて彼を睨みつけた。
「いちいち余分なことばっかり言うな、今日のおまえは」
「それはそうです、殿下がいつになく荒れていらっしゃるのですから」
その言葉を聞いて、アヴェルスは大きくため息を吐いて背もたれに寄りかかった。
「そりゃそうだろ、あいつ、俺を拒んで昔の恋人に助けを求めたくらいなんだからな」
「おや……それはそれは」
あのときは無理矢理抱いてやろうと思ったが、結局、初めて見る彼女の泣き顔に驚いてしまった。
いつも強気で、頭突きをしてくるほどのじゃじゃ馬だというのに、あんなふうに泣くのだと。
「あぁクソ、あいつの話はやめだ、イライラする。俺は仕事を進める」
「あまり無理をなさらぬよう、殿下」
「分かってる」
レディウスが出て行ったあとも、アヴェルスの心を黒く淀んだものが満たしていた。
いつもいつも、欲しいものは何も手に入らない。
必要ないものは山ほど手に入るというのに。
ユーヴェリーにとって自分は弟のような存在であった、それは知っている。
だからとうに諦めていた恋だった。
だがエルトリーゼは前世の恋人ときた。アヴェルスとしては馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
(前世って……もう終わった生涯の話だろ、それなのに……)
それなのに、エルトリーゼは助けを求めるのだ、そのとうに離れ離れになった恋人に。
(しかも、年下は好みじゃないだの、ド外道だの、好き放題言いやがって)
特に、年下という言葉がアヴェルスには引っかかった。こればかりは努力でどうにかできる問題ではない。
(年上だって言ってもたかが一歳じゃないか)
とはいえ、自分が年下であるのは事実であり、認めざるをえない。
(ああ、クソ、本っ当にムカつくなあの女……!)
アヴェルスは目の前の書類を睨みつけ、それに集中しようとエルトリーゼのことを頭の隅に押しやった。