不思議の湖について調べようと、そのあとも図書館に向かったがなぜかエルトリーゼは閲覧権を剥奪されていた。誰がやったかなど考える必要もない。

(あ、の、く、そ、や、ろ、う!!)

 式まで日がないというのに、苛立ちながらエルトリーゼは王立図書館から出てきた。
 どうすればいいだろうか、今、何をするべきか、立場上街の人々に聞いて回ることなどできないし、専門家の知り合いも居ない。居たとしても、それも封じられているだろう。
 親指の爪を噛み、ギロリと地面を睨みつけていると……。

「あ、あの……エルトリーゼ様……? ご気分がすぐれないのです?」
「あら、ユーヴェリー様」
 こんなところでこれ幸い。
 彼女と一緒なら図書館のあの区画にも入れないだろうか?

「いいえ、ちょっと考え事をしていて……ユーヴェリー様はなぜこちらへ?」
「わたくし、もうすぐ式を控えていて……ここで本を読める機会も減るでしょうから、ちょっと寄ってみましたの」
「式……?」
 エルトリーゼが首を傾げると、彼女は幸せそうに微笑んだ。
「ええ、やっと嫁ぎ先が決まりましたの!」
 嫁ぎ先……? 一瞬で血の気が引いていく。アヴェルスを押し付ける最後の砦が!
 せめてもの希望で問いかける。

「それは……ええと……殿下ではなくて?」
「……? なぜアヴェルスがでてきますの……? ああ! エルトリーゼ様、彼はちょっと気難しいところもありますけれど、どうかよろしくお願いいたしますわ」
 なぜか背を押されてしまった。不安に思っているとでも思われたのだろうか? 少なくとも嫁ぎ先は彼ではないようだ。
(くっ……最後の砦が!! 誰よ! こんな時期にユーヴェリー様を嫁になんて言いだした男は!)
 いや、とにかく今はそれどころではない。彼女は不思議の湖について何か知っているだろうか?
「ま、任せてくださいな。ところでユーヴェリー様は不思議の湖というのをご存知かしら?」
 ここによく来ているようだし、知っていてもおかしくない。

「不思議の湖……? ああ、自分の行きたい世界に行けるという幻の湖ですわね」
「行きたい世界に、行ける……?」
 首を傾げているエルトリーゼに、彼女は丁寧に説明してくれた。
「たとえば過去の世界、一番戻りたい時間……などを再現してくれる世界への入り口ですわ。あくまで再現ですから、仮想現実のようなものですけれど。新月の夜にだけ、王城の中庭に開くとか」

 王城の、中庭……!!

 一瞬で大嫌いな男の歪な笑みを思いだす。
(あいつ! あの男! 知ってやがったわね!! ていうかどうやって行くのよそこまで!! あいつに会いに行く名目で行くしかないじゃない!! でもあいつが目ぇ離すわけないじゃない!!)
 ギリギリと気づかれないよう足のつま先に力をこめるエルトリーゼ。
「ですけどエルトリーゼ様、あの湖に今近づくのは危険ですわ。だって、こちらの身体が消えてしまうんですもの。この世界からエルトリーゼ様は失踪してしまいますのよ? 婚礼も近いのですし、あまり危険なことは……」
 不安そうなユーヴェリーはやはり根っからいいひとなのだろう。
 エルトリーゼはにっこり笑って頷いた。

「え、ええ! もちろん! そんなところへは近づきませんわ! ありがとうございましたユーヴェリー様、それでは、ごきげんよう!」
 式まで日にちがない、それまでに王城の中庭に忍び込む計画を立てなければならなくなった……と、思ったのだが。
(え? ちょっと待って、新月って言ったわよね?)
 まさに、式の日が満月であって。つまり今、月は満ちているのであって。
「あ……詰んだわ」
 目の前が真っ暗になった瞬間だった。

 ◇◇◇

 まさに真っ暗だ。
 正直言って、神父の言葉に対して誰がこんな野郎と永遠を誓うかと隣のすまし顔を殴り飛ばして式場を飛び出してやりたい。本当は。
 だが結局、エルトリーゼに拒否権などあるわけもなく、家名を思えばこの男を殴り倒すこともできず、反吐が出るような誓いのキスをするはめになったのだった。

 ◇◇◇

 夜になった夫婦、夫婦と言っていいものか、の、寝室でエルトリーゼはベッドに座ってうんざりしたという表情をしていた。
「最っ悪……」
 ごしごしとハンカチで唇を拭うエルトリーゼに対して、アヴェルスはにこにこと笑っている。あからさまな作り笑いだが。

「さすが完璧な王子様、よくもまぁ好きでもない女ひっ捕まえて嘘っぱちの誓いを立ててキスできるわね、それだけで反吐がでそうだわ」
「俺はおまえがどうやって公爵令嬢をやってきたのかのほうが不思議だよ、この大根役者、もう少しまともな演技ができないのか?」
 初夜の寝室には甘さもへったくれもない、罵りあいだけがある。
「はぁ……とにかく、これで私はお役御免でしょ、公務以外であんたと顔あわせたくないわ」
 エルトリーゼは重いため息を吐いてそう告げたのだが。

「何を言ってるんだ?」
 ニコニコと笑っているあたり、もうすでに嫌な予感しかしない。
「おまえが大嫌いでしかたないって言うなら、寝室を別になんてしてやらない。尻軽女め」
 プツンと彼女の中で苛立ちの線が切れた。
 この男、どこまでもエルトリーゼをイラつかせてくれる。そう言うのならこっちだって言ってやろうと口を開く。

「きゃーっ、アヴェルス様の容姿大好きなんですぅー、ずぅっと一緒に居たいなぁ!」
「初めて女を殴りたいと思ったよ」
 それはそれは見事なほどの棒読みだった。
 眩暈を覚えたのか額を押さえるアヴェルスに、エルトリーゼはチッと舌を鳴らす。
「ほら、好きだって言ってるんだから寝室変えなさいよ。大好き、本当に大好き、その顔ずっと見ていたいわぁ、実は今までのは全部嘘で一目惚れだったんですぅー」
「……いい性格してるよ、おまえ」
 このとき、エルトリーゼは何も分かっていなかった。
 アヴェルスが何を考えているのか。これから何が起こるのか。
 ゆっくりと彼がベッドに近づいてきたが、エルトリーゼはまさか自分に手をだすとは思わず座ったまま伸びをしていた。

「って、え? 何?」
 ぐいっと肩を押されて、そのままベッドに沈み込む。
 組み敷かれてなおきょとんとしているエルトリーゼに、アヴェルスは頭痛を覚えたのか眉を寄せた。
「何って、初夜だろ」
「そうね? だから?」
「……分からないなら分からないままでいろ、むしろ好都合さ」
 彼はそう言うと、エルトリーゼの手にあったハンカチを奪って彼女の細い手首を拘束した。

「は? ちょ、あんたまさか……っ!」
 この男、よもやここまでして手をだそうというのだろうか。
「……その綺麗な顔に青痣作られたくなかったら馬鹿なまねしないことね」
 いっそ冷静になり、低く静かに告げる。けれどアヴェルスは歪に笑った。
「おまえが暴れたくらいでどうこうなるほどやわじゃない、それに痣くらい、すぐに治せる」
 こ、の、や、ろ、う!
 エルトリーゼは歯を食いしばり、頭突きをしてやろかと思ったのだがあっけなくかわされる。二度も同じ手は受けないらしい。
「くっ! 抱ければ誰でもいいってわけ!? 冗談じゃないわよ! このけだもの! 最低男!!」
「なんとでも言え、こっちは仕事、おまえは義務。それだけのことだ」
 降ってくる冷たい声、夜着に手をかけられ、エルトリーゼは瞳に涙をためて首を横に振った。

「や……いや、シヅル!」
「っ」
 夜着にかけられたアヴェルスの手が止まる。
 少しのあいだを置いて、彼は眉を寄せ、嫌々そうに呟いた。
「シヅル……?」
 この世界では聞きなれない名前だろう。エルトリーゼは敵を前にした猫のように眦をつりあげて叫ぶ。
「前世の恋人よ!! あんたみたいなド外道とは大違いの、優しくて誠実なひとだったわ!」
 アヴェルスは黙っていたが、やがて歪に嗤って冷たい紫の双眸で彼女を見おろした。
「へェ、そいつは結構。じゃ、その男の名でも呼びながら、俺にいいようにされるんだな」
「こんの……最低王子!!」
 どこまで外道なのか。信じられない。

「心配しなくても地獄の底まで一緒に落ちてあげるから今はやめてよ! ていうか、あんたは側室でもなんでも何人取ってくれても構わないったら!!」
 エルトリーゼは愛人だのなんだの作る気はない、自分のせいで彼がユーヴェリーと結ばれなかったというならそれでもいい、この生涯を惨めに終える覚悟はできている。
 ただし、この男の子を産むという選択だけは無しだ。
 きっと子供自体は可愛いだろう、だが、この男の妻であるという立場に落ち着くのは嫌だ。
 しかしアヴェルスは無表情に残酷な言葉を告げた。

「側室なんて取る気はない、俺の子を産むつもりもないくせに、地獄の底まで一緒に落ちる気があるなんて冗談だろう」
「くっ……なんで私にこだわるのよ、誰だっていいくせに」
 少しはまともな言葉が聞きたかったのだが、すでに数度目だ、期待はしていなかった。
「彼女に失望されるような男では居たくないんでね」
 つまり、側室を何人も取ってユーヴェリーに失望されたくないと。

(このっ、このっ……このっ! しばき倒してやりたいわ!!)
 悔しそうに唇を噛んだエルトリーゼを満足げに見やって、アヴェルスは彼女の首筋に顔をうずめた。触れる唇の感触に怖気が走る。
「ひ……や、だ、やめてったら……っ!」
 誰がここで大人しくしていてやるものかと思っていたのだが、思いがけず怯えた少女のような声がついて出る。
 アヴェルスは一度顔をあげると、エルトリーゼの怯えた表情を見てにやりと笑った。
「初めてじゃないんじゃなかったのか? まるで、生娘のような反応だ」
「そ、うよ、初めてじゃないわ、少なくとも……前世、では」
 嘘だけど。とは言えない。
「そいつはどんなふうにおまえに触れたんだ?」
 歪に笑って、アヴェルスの手が彼女の頬をなぞる。

「っや……! やだ、おねが、い……やめて……」
 しかし、ついに泣きだしたエルトリーゼを見て彼はぽかんと紫の瞳を見開いた。
「おい、なんでそんな……」
 今まで聞いたことのないような、呆気に取られたかのような声音だった。
「や、やなものはやだもの! 怖いものは怖いもの!!」
 しゃくりあげながら叫ぶエルトリーゼに舌打ちをして、アヴェルスは彼女の手首の拘束を解いた。
 そして、落ち着かせるように華奢な身体を抱きしめる。
「あぁクソ、悪かった。悪かったからそんな顔して泣くなよ」
「触んないでよド外道王子!!」
 しかしエルトリーゼはぐいぐいとアヴェルスから離れようとし、彼は大きなため息を吐いた。

「あぁ、やっぱ優しくしてやるんじゃなかった」
「どこが優しいのよ! 優しいなら最初っから手ぇ出さないでよね!!」
 ぽろぽろと涙をこぼしながら言うエルトリーゼに、アヴェルスはまた一つ大きなため息を吐いたのだった。先が思いやられる。