結局、アヴェルスはエルトリーゼをほうっておけなかった。新月のあの晩、彼女のあとを追って湖に入った。
 あの湖に入ることを選んだのはエルトリーゼ自身であるし、戻って来る可能性だってほとんどないのだからほうっておけばよかった。だが、もしも彼女が戻りたいと、万に一つでも思ったとき、あの世界は牙を剥くだろう。

(ま、無駄だろうけどな)
 最初は様子を見るつもりでナツという存在に擬態してあの世界に入りこんだ。エルトリーゼと違って魔法の才能もあるアヴェルスにとっては、簡単なことだ。
 帰り道が開くのはもとの世界での満月の晩。こちらの世界の流れで考えると花火大会だという日がちょうどその日にあたる。それまでにエルトリーゼは決断するだろう。少なくとも、そう信じたかった。

 こちらの世界の知識はこの世界に入った時点で与えられている。アヴェルスがナツという役割を演じることになったとたん、この世界はナツという存在を再現した。その家や家族、もちろん彼は、彼らの前でも完璧に「ナツ」という人間を演じた。
 違和感を持たれれば面倒なことになる。この世界は裏切り者を許さない。

(あれが前世ねえ……)
 初めてセツナ・ドウジマという少女を見たときに抱いたのは違和感だった。
 エルトリーゼとは目の色も髪の色も違う。だが、その雰囲気や気性はやはり変わらない。
 まぁ、もともと彼女はエルトリーゼであり、すでにセツナではないのだから当然かもしれないが。
 めずらしく早起きして、気まぐれに学校に行くことにした、として家を出てセツナの家の前を通りかかると、彼女に声をかけられた。
 部活動をすればいいのにと。

(こいつ……こっちの世界がよほど好きだったんだな、いや、まぁあのじゃじゃ馬ぶりを思えば当然か。公爵令嬢なんて不自由だったろうな)
 少しばかり哀れに思ってしまった。令嬢でさえ不自由だったなら、自分の妻になった今彼女はもっと不自由だろう。
 とはいえ、そのことは今考えてもしようがない。決断するのは彼女だ。

(弓道ねえ……こっちのとは少し違うから手をださなかったのか、あるいは、前世が恋しくなるからやらなかったのか……)
 どうやらセツナは弓道部だったらしい。エルトリーゼに関しては、弓が得意だとかそんな話は聞いたことがないが。
 元気に走っていく背を見ていると、あいつにはあの高いハイヒールは向いていないかもしれないなどと考える。公の場ではともかく、普段は好きな靴を履かせてやったほうがいいかもしれないと。

(俺も滑稽な男だな)