エルトリーゼとして生まれ、子供の頃からよく夢を見る。自分が死んでいる夢、家族のような人々の夢、友人のような人々の夢、そして……真っ黒な短い髪に青い目をした大好きだったひとの夢。
『セツナ、おつかれ!』
 部活帰りに声をかけられたのは、その日が最後だった。
 土砂降りの雨が降る外を校舎の渡り廊下から眺めて、シヅルが呟く。
『雨ひどいなー、心配だし、一緒に帰るよ』
『大丈夫よシヅル、あなたが私と一緒の道通ったら、遠回りじゃないの。一人で平気』
 くすくすと笑うセツナに、彼は不安そうな表情で言う。

『けど……なんか、嫌な予感がしてさ』
『大丈夫だってば、もうこんな時間だし、私だってシヅルが心配だわ』
 そう言って彼の背を叩くと、しぶしぶといった様子でシヅルは手を振った。
 そうして別れて、そして……。

 ◇◇◇

(く……思えばあいつはこの世界に想い人が居るのよね、ムカツクわ)
 セツナ、否、エルトリーゼは目覚めてすぐに親指の爪を噛んだ。
 すましていれば美少女だというのに、悪鬼のようなその表情からはとても可憐さは窺えない。
 ベッドから降りると、彼女は伸びをした。
(って、言ってもしようがないわね。私死んじゃったんだし……でも、なんとか方法がないかしら?)

 この世界で、前世の記憶があるなどと他人に言うつもりはなかった。
 こちらの世界は魔法であるが、文明としてはもともとの世界とほとんど変わらない、むしろ進んでいる面も多いかもしれない。
 だからこそ、だ。この最悪の婚約から逃げだす道があるかもしれない。

(不可能を可能にする魔法のある世界だからこそよ! きっと何かしらあの腹黒から逃げる手立てがあるはず……! たとえば蘇るとか前世に帰るとか、そんな馬鹿みたいなことできなくてもいいから、そう、言ってしまえば仮想現実だっていいのよ!)
 そう頭で考えているとノックの音が響いた。

「お嬢様、お目覚めですか?」
「ええ、入っていいわよ」
 少女の声に返事をすると、黒い髪を結い上げた茶色い瞳のメイド、ロレッサ・レイトミーが入ってくる。
「今日はいつもよりお早いのですね、やはり、アヴェルス様とのご婚約がありましたし……お嬢様も嬉しいのでは?」
「う、嬉しい? 私が? どうしてそう思うの?」
 ロレッサのとんでもない言葉に首を傾げると、彼女も不思議そうに首を傾げた。
「え? だってアヴェルス様ですよお嬢様! これ以上いい縁談がどこにありますか! あのかたならお嬢様のことだってきっと大切にしてくださいます!」
 にっこり笑って言うロレッサに、エルトリーゼは眩暈を覚えた。

(アッ、建前のほうしか見えてないのね……純粋なロレッサ……)

 こうしてコロッと騙される女性の多いこと多いこと。
 あんな男の何がいいのかエルトリーゼにはさっぱり分からないが、それでもいいものはいいらしい。あの本性を知ってなおそう言えるのかは知らないが。
(ま。式までに逃げ道を見つけるなりしなきゃね。なんにしても、その日まであの男から絡んでくることはないだろうし……)
 などという考えは甘かったのだと、エルトリーゼは数時間後に後悔した。

◇◇◇

「はぁ……」
 これ見よがしなため息にもエルトリーゼは笑みを崩さない。崩さないだけではらわたは煮えくり返っている。
 二人、アヴェルスとエルトリーゼは例によって彼の私室に居た。
 互いに向かい合ってソファに座っているが、エルトリーゼはまず「この男と話すくらいなら置物になったほうがマシ」という意思から、アヴェルスは「この女の声さえ聞きたくない」ということから互いに無言の時間がすぎていた。

(くっ……陛下も何をお考えなのよっ! この男の本性も想い人もご存知なのではないの!? 冗談じゃないわよ、まさか式の日までこんな男に縛られるんじゃないでしょうね! こちとら忙しいのよ! この馬鹿みたいな結婚から逃げ出す方法も見つけなきゃいけないし!)
 苛立ちから一瞬笑みが崩れた。爪を噛みそうになるのを堪えていると声がかかる。

「……あんた、今何を考えてる?」
 アヴェルスに鋭い視線を向けられ、エルトリーゼはあえてニコッと笑った。
「あんたに言うようなことじゃないわよ」
 言えるものか、言えばどうせ邪魔をするに決まっている。それはもちろんエルトリーゼがどうのこうのではなく、自分のためだろう。
「俺には言えないようなこと、の間違いだろ。ろくでもないことを考えてる顔をしてた」
「あんたにとってはろくでもなくないと思うけどね」
 エルトリーゼの言葉に、彼は苛立たしげに口を開いた。

「ろくでもないことだろ。俺に迷惑をかけてくれるなよ、おまえが不祥事でも起こして破談にでもなったら、こっちの風評にも関わるんだよ。不細工に足引っ張られるのだけはごめんだね。ひとがいちいち演技して築いてきたものを他人に台無しにされるのは耐え難い」
 チッ。と、思わず舌打ちをしそうになったのをエルトリーゼは堪えた。

(この野郎、とんでもない奴ね。少しは目上に対する敬意を持ったらいいわ)
 エルトリーゼはアヴェルスより一つ上なのだが、彼は年齢などどうでもいいらしい。
 部屋がギスギスとした空気に満たされ始めた頃だった。
「アヴェルス様、ユーヴェリー様がいらっしゃいました」
 執事の声が外から聞こえた途端、彼の顔がぱっと明るくなる。
(あぁなるほど、こいつの想い人ってユーヴェリー・アッサレア伯爵令嬢か)
 そういえば幼馴染だと聞いたことがあるが、ユーヴェリーはアヴェルスより二つくらい年上だったはずだ。
 それにしてもこのすがすがしいほどの態度の豹変ぶり、頭にくるものだ。

「通してくれ」
 まぁまぁ声の明るいこと、とエルトリーゼは内心で唾を吐き捨てた。
 やがて入ってきたのは金色の長い髪を編んで肩から流した、緑の優しい瞳を持ついかにもな美女だった。実年齢より大人びて見える。幼さの残るエルトリーゼとは逆のタイプだ。

「アヴェルス、久しぶり。元気にしていた?」
「ああ、何も問題ないよ」
 問題だらけでしょうが、私とか。というのは伏せておく。
 どうせ口を挟もうものならあとで厭味の倍返しがあるだろう。
「エルトリーゼ様とご婚約なさったと聞いて、お祝いに来たの。って……エルトリーゼ様もいらしていたのね! わたくしったら、お邪魔をしてしまいましたわね……」
「まぁ、お気になさらないで」
 ふふっと作り笑いを浮かべて言うと、ユーヴェリーは困ったような顔で言う。

「いえ、お二人の邪魔はできませんわ、わたくしは――」
 ぞわっとするような悪寒を感じて、エルトリーゼは席を立った。
「お、お待ちくださいませ! 私、今日はどうも調子が悪くて……殿下、御前失礼させて頂きますわ!」
 などと言って、エルトリーゼは嵐のように部屋から飛び出した。
 冗談じゃない、ここでユーヴェリーが帰るなどと言った日にはあの性悪が何をするか。
 エルトリーゼはさっさと王城をあとにすると、清々したとばかりに王立図書館へ向かった。
 城下町は今日も活気に溢れていて、治世が安定していることを証明しているかのようだ。
(あんなやつでも、仕事はできるのね、仕事は。仕事は)
 大事なことなので三度言う。
 ふと、視界の隅を見知った……シヅルのような人物がよぎった気がして立ち止まった。

(――? いえ、そんなわけ……ないわよね……?)
 ついに幻覚でも見え始めただろうかと思いながら、エルトリーゼは首を横に振って歩みを進めた。