「シヅル?」
 夢はさめないのだろうか。少なくともセツナという存在はすでに消えかけているのを感じているのに。
 振り返れば、彼の口元が歪な笑みをうかべているのに気づいた。

「ひどいなセツナ、二度も俺を置き去りにするのか?」
「――え」
 青い瞳に映るのは狂気にも似た色で、背筋を怖気が走るが逃げだす猶予もなくシヅルの手がセツナの華奢な両肩を掴む。

「帰るなんて言わないよな? だって、やっと逢えたんだぜ?」
「シヅル……? な、に、言って……」
 怖い。本能的な恐怖を感じた。震えた声が唇からこぼれ落ちたときだった。
「あーあー、こうなるとは思ってたんだよなァ」
 瞬間、割り込んできた第三者の声。きらめいた小ぶりのナイフがシヅルの腕を掠め、手がセツナから離れた瞬間に彼女の身体を抱き寄せた人物。

「な……ナツ!? 何、どういうこと!?」
 いつの間にか、周囲で花火を見ていただけの人々まで狂気じみた瞳でナツとセツナを囲んでいる。
「うるせぇこれで察しろ」
 制服姿のナツはそれだけ言うとフードをはずした、その双眸は以前と違う、見覚えのある紫色。それに、そもそもこんなに整った顔をしている人間も一人しか知らない。

「え!? アヴェルス……!? な、なに、どういうことなの!?」
「いいから大人しくしてろ、舌噛まねぇように黙ってろ。この世界で一生すごしたくねーなら、俺を選ぶなら大人しくしてんだな」
 言い終えるなり、ナツ……アヴェルスはセツナを横抱きにして駆けだした。伸びてくる無数の手を払いのけながら。
 まるでパンデミックが起きた世界だと思う。言うなればゾンビゲームのような。
 道行く人々までもセツナとアヴェルスを止めようと手を伸ばしてくる。

「な、なんでこんなことになってるの!?」
 セツナの問いに、アヴェルスは舌打ちをした。黙っていろと言われたそばから話しているので無理もないかもしれない。
「不思議の湖なんて可愛い名前じゃ想像できねぇだろうな、ここはおまえの未練とシヅルって男の未練と妄執の世界だよ。おまえ一人の記憶と経験からすべてを再構築することはできない。だから、おまえが死んだ時点のシヅルって男の無念や妄執からも構成されてんだよ。そんな未練たらたらな時期のあの男が、はいさようならっておまえを手放すと思ってんのか、阿呆」
「き、聞いてない!!」
 青ざめて悲壮な表情で叫ぶセツナに、アヴェルスは厭味っぽく笑った。

「ついでに、以前ここを作った女王の話をしたな? その女も来る者拒まず去るもの許さずだった。まぁ、そういうこった、ここは最初からイカれた世界なんだよ。これに懲りたらよく知らねぇもんに手ぇだすのはやめるんだな」
「そうと知ってたらやめたわよ!! 言いなさいよ!!」
「どうせおまえは試すまで納得しねぇと思ったし、魔法ってものの恐ろしさを知るいい機会だと思ってな」
「――うぐ!」
 確かに。結局、不思議の湖には引っかからなくてもそれ以外の何かに引っかかっていた可能性はある。そう思うと、アヴェルスの決断は正しい。

「安心しろよ、シヅルって男はもうこの世界のどこにも居ない。あれがただのハリボテだってことは変わらない。傷つけるのを見たくなければ目を閉じてろ、こうなったからには強行突破しないかぎり、おまえはここであいつと結婚して、ここが仮想現実だと知っていながら、エルトリーゼの記憶も持ちながら死ぬまで留まるしかねぇんだ」
 ぞっとする話だ。ここが偽りだと気づきながら、ここに留まり続けるとは。

「も、もしかしてアヴェルス……助けに来てくれたの?」
 セツナの……すでに姿はエルトリーゼに変貌した彼女の問いに、彼はニヤリと笑う。
「どうせこうなると思ってたからな。感謝しろ、そしてそれ相応の対価を考えとけ」
「か、感謝はするけど! お礼を強要するのはどうかと思うわ!」
 伸びてくる手をナイフで振り払うアヴェルスは手馴れているように思えた。さすが何でも完璧にこなしてきた王子様だけある。エルトリーゼという重荷がありながら、器用に腕を避けて、払い、この町の小高い山の上にある神社を目指して走っているようだ。