「セツナ!」
 手を握ってくれていたのだろう、瞳を開くとシヅルの声が耳に届く。
 ああ、セツナに戻ったのだと思った。
「身体は大丈夫か?」
「……ええ、ちょっと貧血気味だったのよ」
 いい加減な言い訳だとは思う、実際には、戻りたいという気持ちが勝り始めているのだろう。

「家まで送ってく、心配で……傍を離れたくないんだ」
 真剣なシヅルの声に否と答えようとしたときだった。
「シヅル、先生が弓道部のことで話があるってさ。どーしても今じゃなきゃ駄目だって」
 保健室に入ってきたナツの言葉に彼は眉を顰める。
「ほんとタイミングの悪い教師だなあのひとは……セツナ、少し待っててくれるか?」
 シヅルの言葉を聞いて、ナツが口を開く。
「少しじゃすまないんじゃないの、体調悪いなら、俺が送ってやるけど?」
 ナツの提案にシヅルは少し悔しそうに唇を噛んだ。
 けれど、セツナの体調を思えばナツに任せるのが一番いいだろう。

「……頼んだ、ナツ。ごめんなセツナ」
「気にしないでよ、シヅルのせいじゃないんだから」
 まだ少しくらくらするのは、自分の存在が不安定になっているからだろうか。
 シヅルが出て行ったあと、ナツがベッドに近づいてきた。

「倒れたんだ? やっぱり悪いものでも食べたんじゃねぇの」
「そんなわけないでしょ。それより、ありがとうナツ」
 鞄などはすでに整えられていて、あとは起き上がって帰るだけだ。
 セツナは簡素なベッドからおりて、鞄を手にとってナツと共に保健室の外へ向かう。
 外からはうるさいほどのセミの声が響いていて、煌々と燃える太陽がじりじりと地面を焦がしている。それだけで、体調の悪い身としてはうんざりさせられる。
 セツナはひとまず何か会話をしようとナツに問いかけた。

「ナツは好きなひととか居ないの?」
「何、急に。のろけ話なら他所でやってよね」
 ふっと笑ったナツの口元。セツナは気恥ずかしさから視線を彷徨わせた。
「そ、その、のろけとかじゃなくて! ただ、ナツのそういう話って聞いたことないなぁって」
 そう言うと、彼は口元に手をあてて考える仕草をした。

「別に興味ないし、セツナには関係ないんじゃないの」
「――ま、まぁ、そうだけど」
 そうバッサリと言われてしまうと、これ以上何も追求できない。
 入道雲が流れる青い空を見上げて、セツナは電線を視線でなぞった。あの世界には無いものだ。
「シヅルとうまくいってないの?」
「は、はぁっ!? どうしてそうなるのよ!!」
 突然のナツの言葉に、セツナが大声をだすと、彼は耳を塞いで言った。

「だって最近のセツナ、なんかシヅルの前でだけぎこちないからさ」
「……え」
 そうだっただろうか? というか、周囲にも分かるほどぎこちなかっただろうか?
「ま。気のせいかもしれないけどさ、シヅルとセツナがぎくしゃくするとか考えらんないし」
「ぎくしゃくなんて……してないわよ」
 ただ、もうここに逃げるのは終わりにしようと思っていた。
 花火大会の日にシヅルに別れを告げたら、自分はもとの世界に戻ろうと思っている。
 それが一番正しい。アヴェルス曰く、前世の呪いに縛られる必要はないのだ。
 そうして過去や前世に縋るのは、自分勝手なことだと気づいた。空想の世界でシヅルに会ったとしても、それは彼に対して失礼なことだとも理解した。

「俺には関係ないからどっちでもいいけどさ」
「ナツらしいわね」
 彼は何にも興味を持ちたがらない。部活も勉強も、才能はあっても何もかも。
 やがてセツナの家に着くと、ナツが言った。
「さっさと休んでいつもの能天気なセツナに戻ってくれ」
「わ、分かってるけど、能天気って何よ」
 にやりと笑うナツ、ふと、フードの隙間から見えた瞳の色がやはり紫色であるように思えて、自分は病気なのだろうかと疑った。
 いったいどれだけ彼に逢いたいのだろう。確かに、これではアヴェルスの言うとおり自分は尻軽ではないか。
 ナツは手を振って去って行き、暑い玄関先に残ったセツナはもう一度電線が塞ぐ空を見あげてから家に戻った。