「何やってんだよ、おまえ」
「きゃあっ!?」
 急に声をかけられてビクリと身体が大きく震える。
 声のしたほうに視線を向けると、アヴェルスの姿があって水色の双眸を見開いた。

「え? あれ、私、もしかして戻って来た?」
「いいや? おまえの身体も意識も相変わらず不思議の湖の中だぜ」
 アヴェルスが居るということはそれしか思いつかなかったのだが、あっさりと否定される。ではなぜ彼がここに居るのだろう?
「俺はたまたま、通りかかったようなもんだよ。それより、向こうの世界はさぞ楽しいんだろうな? 想い人にも再会できてさ」
 厭味っぽく嗤うアヴェルスに、エルトリーゼは眉を寄せた。

「楽しかったら、道に迷ったりしないわ」
 少なくとも、この不思議な空間に居るというのは道に迷ったとしか言いようがない。
「あなたこそ、お荷物の妻が居なくなってさぞ人生が楽になったことでしょうね!」
 エルトリーゼも厭味で返すと、アヴェルスは憂鬱そうに大きなため息を吐いた。
「楽になるどころかどんどん重たくなってるぜ。おまえが失踪したってんで、側室を取れと騒がしい奴らが居るしな」
 思わず水色の瞳を見開いた。側室。彼に。
 心が悲鳴をあげるように痛む、けれどそれに蓋をした、彼から逃げだした自分にとやかく言えることではない。
 けれど、今なら素直に言葉を口にできそうだった。

「ねえ……ちょっとは寂しいって思ってくれた?」
 少しだけ甘えるような口調で聞くと、アヴェルスは腕を組んであきれたというような表情で言う。
「俺は前に、どこにも行かないでくれ、と確かに言ったはずだが、どっかの馬鹿が勝手に逃げだしたんだろうが」
「う……」
 そのとおりだ。アヴェルスは確かにそう言った。
「だって……あなたのその言葉が嘘か本当か分からないんだもの。嘘だったら……耐えられないの」
 エルトリーゼがぽつりぽつりとそれを言葉にすると、アヴェルスはおかしそうに笑った。

「なんだよ、俺に惚れたのか?」
 冗談めかした言葉だったが、エルトリーゼはすくっと立ちあがると彼を睨みつけて叫ぶ。
「そうよ!! そうだったら悪いの!? あんたみたいなド外道の最低の最悪の男を好きになっちゃったの!! もうっ! 最悪よ、あんたなんかじゃなければ、あんたがあんな紛らわしいこと言わなきゃ、私はこっちの世界を謳歌できたのに!」
 驚いて目を丸くしているアヴェルスに、エルトリーゼはなおも言う。

「ほんとにほんとにほんとに最悪よ!! あんたなんか……あんたなんか好きにならなきゃよかった、そうしたら、きっと私、戻りたいとか、戻りたくないとか、こんなつまんないことで悩まなかったわ、あんたの言葉に嬉しくなったり不安になったりなんかしなかったわ!」
 これが最後かもしれないなら、少なくとも自分が本気で帰りたいと思えないなら戻れないのだから、いっそ言ってしまえと叫ぶ。
「あんたなんか好きになるなんてどうかしてるわ、自分でも、いっそ狂ってると思うわよ!」
 ぽろぽろと水色の瞳から涙がこぼれる。アヴェルスはそれを見て小さく息を吐いた。

「――失礼なやつだな、というか、おまえまだ俺のこと信じてなかったのか。重ねて失礼だ」
 ゆっくりと距離が縮まって、アヴェルスの手がエルトリーゼの涙を拭う。
「嘘をつく気だったらもっとうまくやるに決まってんだろ、おまえが疑う余地もないくらいにな。素なんだよ、おまえの前では。演技も、嘘も、何もやってねぇんだよ」
「嘘だわ」
 エルトリーゼがばっさりとそう言えば、アヴェルスは大きなため息を吐く。
「どっかの大根役者と俺を一緒にするなよ。たとえ相手がおまえでも、本気で騙す気ならもっとうまくやる。それとも、おまえには俺の演技が全部見抜けるとでも言う気か?」
「うっ……」
 それを言われると確かにそうだ。現状ではあくまでエルトリーゼの被害妄想にすぎない。
 アヴェルスが本気で騙そうというのなら、確かに、エルトリーゼの心を巧みに操るのかもしれない。何をすれば喜ぶか、信じるかも彼はきっと分かっている。
 分かっていて、そうしていないのだということだ。

「ま。俺に側室ができないうちに戻って来いよ、俺はいちいち演技しなきゃならない女はいらないんでな」
 ゆっくりと抱きしめられて、頬に熱が集まるのを感じる。
「……怒ってないの?」
「だって、おまえはそのシヅルって男のこと、とっくに諦めてるだろ。だったら、前世でどんな関係だろうが俺のほうが上だ」
 なぜアヴェルスにそんなことが分かるのだろうと思った。
 それが顔にでもでていただろうか? アヴェルスが意地悪く笑って言う。

「俺も諦めてた恋があるからな。おまえの様子を見ていれば、なんとなく察しがつくさ。それに本気でまだそいつが好きなら、おまえはこんなところに居ない」
「……なんだか、あなたの手の上で転がされているようで嫌だわ」
 エルトリーゼはアヴェルスの背に腕をまわして、小さなため息を吐いた。
「たぶん……もう何日かしたら戻るわよ。シヅルにさよならを言ったら……最後の約束を果たしたら」

「俺の前でよくそういうことが言えるな、おまえ」
 彼のぬくもりが遠ざかる、すぐ傍に居るのにも関わらず、透明になっていくようだ。
 やがて意識が、視界が真っ白に染まっていく。


『待ってるぜ、おまえのこと』
 最後にアヴェルスの声を聞いて、目がさめればそこは保健室だった。