とうとうその日がやってきた。寝室でそわそわとしていたエルトリーゼはやがてそっと部屋を出て、人目を忍んで中庭の近くまでやって来た。
 今日に限ってアヴェルスは仕事が長引いているようで、遅くまで戻って来なかった。あるいは、もう何も言わないという言葉どおり、エルトリーゼの自由にということなのかもしれない。メイドも騎士も誰も咎めないところを見ると、その可能性が高い。
 宵闇に包まれた中庭からは、淡い光の粒子がふわふわと飛んでくる。こんなことは初めてだ。

「これが……」
 見張りも誰も居ない中庭に足を踏み入れて、中央へ向かうと確かに湖があった。淡い光の溢れる湖が。
「と、飛び込めばいいのかしら……?」
 そこでふと、アヴェルスの憂いを帯びた顔を思いだす。
 まさか、ありえない、アヴェルスはきっと自分が居なくなればせいせいしたと思うだろう。確かにスキャンダルではあるが、それと引き換えに彼は自由を手に入れられる。
 意を決して、エルトリーゼは湖に近づいた。
 そこから先の意識が、ない。

 ――一方、アヴェルスはその様子を書斎の窓から眺めていた。
 エルトリーゼの見張りも護衛も下がらせた、彼女は今日あそこへ行くだろうと分かっていたから。邪魔をする必要もない。
 もとよりエルトリーゼという少女は縛りつけておけるほど従順な存在ではないのだ。
 彼女が自分の意思でアヴェルスの傍に居ることを望まない限りは、何もかも無駄だ。
「よいのですか? 殿下」
 困惑したような顔をしているレディウスに、アヴェルスはフンと小さく鼻を鳴らす。

「あいつに任せるよ」
「……僭越ながら、殿下のお妃様が務まるのはあのかただけかと思うのですが」
「何それ、俺のような性格の悪い男に付き合えるのはああいう性悪だけだって?」
 アヴェルスが茶化すように言うと、レディウスはため息を吐いた。
「分かっていらっしゃるのに茶化すのはいかがなものかと」
「無駄だよ、エルトリーゼは自由だ。俺と違ってね」
 それ以上の問答は無用だというように仕事へ戻るアヴェルスに、レディウスは物言いたげな顔で、けれど唇を噤んだ。