澤井さんがニューヨークに発ってすぐ、父が退院してきた。

右手はまだ痺れているが、週に一度、自宅から入院していた病院までリハビリに通えばいいほどに回復していた。

久しぶりに厨房に立った父はとてもうれしそうに微笑む。

「まさか、ここに戻って来れるとはな」

父はエプロンを手に取り腰に巻こうとしたけれど、右手が利かずエプロンがスルリと床に落ちた。

「はいはい、私が結びましょう」

山川さんは敢えて明るく父のエプロンを拾い、腰に結んだ。

その時、父の目元が僅かに引きつる。

きっと父もわかっていたことだった。片手が不自由なだけでこんなにも普段の何気ない動作が困難になるってことは。

その日の仕込みは、結局父は何も出来ず私達に指示をし、味の確認をするだけだった。

後片付けを終えた山川さんは、不機嫌な顔で椅子に座っている父の肩に手をそっと置き、

「何事も慌てずゆっくりやっていきましょう」

と優しく声をかけた。

「わかってる」

父はうつむいたまま唸るように答える。

山川さんは私に苦笑しながらも頷き手を振りながら厨房を出ていった。

しょうがないよね。

だけど、父が戻ってきて店頭に出すお菓子の数は少しながら増えたもの。

山川さんの言うように、少しずつゆっくりやっていけばいい。

「くそっ」

父は吐き捨てるように言うと、エプロンを足下に放り投げた。

「お父さん!」

私は洗い物をしていた手を止め、父に駆け寄りエプロンを拾った。