本多に『この夏最高の作品を仕上げて欲しい』と言われたあの日から、慧は自分の気持ちを存分にのせられる一枚を描こうと毎日大学のキャンパスに足を運んだ。

単純に描いてみたいと思うくらいのものはいくつかあったが、一枚の絵に自分の全てを吹き込みたいと強く思う程の感情は今までにも湧き上がったことはない。

結局、良いアイデアすら見つからないまま夏季休暇に入り五日が経った。

何となく夕方にキャンパスへ足を運んだ慧は、キャンパス内にあるアトリエ前の廊下でピタリと足を止める。

数メートル先に見えたのは、線の細い黒髪の女性。横顔しか見えないけれど、歳は慧と同じか少し上に見えた。

彼女は窓際に立ち、そこからじっと窓の外を眺めていた。ゆっくり、何かに怯えるようにしながら瞼が下りる。すると、一粒、すうっと涙が落ちていくのが分かった。

夕陽に照らされたそれがきらりと光を放つと、慧は目に映る景色から目が離せなくなっていた。どうにかこの場を離れようとも考えたけれど、この景色をもっと目に焼き付けたい。そして、筆を取りたいと強く思ってしまった慧の足は言うことを聞いてはくれない。

しばらくそのまま女性のことを見続けていると、流石に慧の視線に気づいた彼女がこちらを振り返る。

ばちりと合ってしまった視線に、僕の心臓はどくんと大きく波を打った。