「岩本には、この夏最高の作品を仕上げて欲しい思うてる。コンクールの成績かて、もちろん大事や。せやけど、そうやなくて……なんか、こう、気持ちがのっかった自分にとって唯一の作品を描けるようになって欲しい。そうすれば、お前はもっと描くことが好きになる」


絵画・彫刻コースの講師、本多(ほんだ)は夏季休暇に入る前、岩本慧にそう言った。

それは、ただの綺麗事でも、冗談でも何でもない。慧は、彼がそういうことを言う類の人ではないことを知っていた。その証拠に、その真剣な言葉を発したあとの彼は窓から差し込む日で反射する茶色の髪を掻き乱すと照れ臭そうにはにかんだ。


「……そんな作品、描けますかね」

「ああ。描ける描ける」

お前なら大丈夫や、と言った本多はまた慧に笑顔を向けると木製の丸椅子からゆっくり立ち上がった。

窓際に立ち、癖なのか白シャツのポケットに入った煙草の箱を吸いたそうに指先で触る本多のことを慧はそれなりに慕っている。

普段、講義中に話せるような相手も、胸を張って友人だと言えるような仲間も片手で数えられる程度しかいない。いや、片手で数えたって余裕で二、三本残ってしまうくらいだった。

しかし、そんな慧の心をこの本多という男はいとも簡単にこじ開けてきた。

十数年前に上京してきたというのに今も尚霞んではいない関西弁と、プライバシーがないと言ってもいい程の気さくさで、慧のテリトリーに踏み込んできた彼に、不思議と慧自身も悪い気はせず、寧ろ今では唯一の信用できる人だ。