出会って三ヶ月。

 僕は一度たりとも彼女の感情円が揺らぐ瞬間を見たことがなかった。どんなことを話している時も、彼女は心底楽しそうにしていた。どれだけ困った人がいても、他人の悪意に晒されても、彼女の心は美しかった。そんな姿を見て僕は、彼女こそがヒーローなんだと思っていた。


 強く、優しく、迷いのないヒーロー。

 だけど、そうじゃなかった。いや、そうであるはずがなかった。彼女は僕よりも一つ年下の、人よりも少しだけ正義感の強いだけの女の子に過ぎないのだから。


「東堂。お前さ──」

「なあに? 涼夜君」


 お前、学校で苛められているんじゃないのか?

 喉元までやってきた言葉を、吐き出すことはできなかった。

 吸い込まれるんじゃないかと錯覚するほど、深く淡い輝きを見せる彼女の瞳は、僕の言葉を拒絶しているようだったから。


「いや……何でもない」


 目を逸らす僕に対して、東堂は首を傾げる。彼女の感情円は、依然として純白のままで、何を思っているのかは分からない。


「そうなの? ならいいけど……あ! そういえば、お仕事が終わったら、私と出かけてくれるって、さっき言っていたわよね!」


 いつもと変わらない東堂の笑顔に、少しだけ心の軋む。今、僕の感情円は何色なんだろう。青色なんだろうか。それとも、彼女達に対する赤色なんだろうか。もしかしたら、全く関係のない色をしているのかもしれない。

 自分自身の感情円を見ることはできない。普通に考えれば、感情円なんて見なくても、自分の感情は分かるからだろう。……だけど、僕は今、僕の気持ちが分からない。

 自分の感情も分からない僕が、他人の感情なんて分かるはずないのに。

 それでも僕は、彼女が何を思うのか知りたかった。常に笑顔を浮かべる彼女が、何を考えているのかを知りたかった。




 午後六時。

 誰一人として喫茶店を訪れる人はおらず、特に仕事もないままにアルバイトが終わる時間を迎えた。

 咄嗟に答えたことだけど、一緒に出かけると言ってしまった以上、反故にするのは気が引ける。それに、今の東堂を一人にするのは何だか嫌だった。

 もうすぐ神無月になるだけあって、辺りは薄暗くなり始めている。ヘッドライトを付けている車と、付けていない車が交互に通り過ぎていくのを眺めながら、東堂と並んで歩く。


「涼夜君はいつから学校なの?」

「学校自体は明々後日からだな。明後日に成績開示があるから、学校には行かないといけないけどな」

「学校が始まっても、お散歩には行きましょうね!」

「時間があったらな」


 どうせ僕は、時間があるだろうけどさ。未だに、携帯電話のアドレス帳は十件を越えていないくらいだし。


「……東堂はいいのか?」

「んー? 何がかしら?」

「僕なんかと一緒にいてだよ。僕が言えたことじゃないけどさ、友達と遊んだりするほうがいいと思うぞ」


 少しだけ意地悪な質問かもしれない。彼女が教室で悪意を向けられていることは分かっているのに。


「だから涼夜君と一緒にいるのよ? だって、涼夜君は友達だから! それに、『なんか』って言葉は嫌いだわ! 諦めの言葉だもの!」


 『なんか』なんて言っちゃだめよ!

 後ろを向きな考えに囚われていた堂本君に対して、彼女はそう言っていた。誰だってヒーローになれるからと。でも、ヒーローは目指すものじゃなかった。誰だってヒーローになれるなんて、土台無理な話だ。


「世の中、諦めた方がいいこともあるんだよ。……逃げ続けた僕が──」


 角を曲がったと同時に、視界が青白い色で埋め尽くされる。そしてその奥に、天を焦がす赤い炎が見えた。その光景を目にするなり、東堂は一直線に火の元へと走り出す。

 現場から足早に離れていく人達の波をかき分けながら、燃え盛る建物へと向かう。近付くにつれて、建物の全貌が明らかになっていく。黒煙を天高く舞い上がらせる建物は店舗こそ違うものの、前に堂本姉を含む三人で訪れたハンバーガー屋だった。


 発火場所はおそらくキッチンだろう。一階は大部分が火に包まれている。まだ二階にはほとんど火が回っていないものの、時間の問題だ。もしかしたら、二階が火に包まれるよりも早く、建物そのものが崩れ落ちるかもしれない。


「誰か! まだ中に友達がいるんです! 誰か助けて!」


 建物の前でハンバーガー屋の制服を着た人達が、困った様子で二人の少女に目を向けているのが見えた。叫んでいる内容から察するに、建物の中に友達が一人取り残されているらしい。さらに近づいて視線を下ろすと、数分前に見た少女の姿があった。しかし、僕と話した『由美』の姿はない。

 僕は思わず、東堂の右手を取ってしっかりと握りしめた。


「どうしたの涼夜君!? 早く行かないと!」

「何言ってんだ東堂! 火の量を見ろ! もう間に合わねえよ!」

「間に合わないかどうかは、まだ分からないわ!」

「建物が崩れるかもしれないんだぞ! ……そうなったら、お前も死ぬかもしれない!」

「それでも! 泣いているあの子達を放っておくことはできないわ! 離して涼夜君!」


 大きく手を振って僕の手を振りほどこうとするものの、この体格差だ。そう簡単に振りほどかれたりはしない。


「……さっきは言わなかったけどな。お前、学校でいじめられているだろ? さっき、学校は楽しいか? って聞いたときさ、嘘、ついたよな」


 僕の言葉に、東堂は目を見開いた。どこまでも深く透き通った瞳が、今は小さく揺れている。


「………………」


 東堂は何も言わない。けれど、その沈黙が何よりも、彼女の気持ちを雄弁に語っていた。


「悪人だから死んでもいいなんて言わない。だけどさ、わざわざ悪人を東堂が助ける必要なんてないだろ。僕はお前に死んで欲しくない。この目に意味があるって言ってくれたじゃねえかよ。なのに、お前が死んだら僕はどうすればいいんだよ。お前はこれから、多くの人を助けることができるよ。だから、今は我慢してくれよ」


 これは僕の我侭だろうか。


「お前の笑顔を僕はずっと見ていたい。だから、頼むからこんなところで死なないでくれ……」


 いや、これが正解だ。

 東堂香織がこんなところで死んでいいはずがない。


「……確かに」


 一秒ほど目を閉じたあと、東堂は左手で僕の右手を取った。お互いに向かい合う形になり、僕と東堂の視線が真っ直ぐにぶつかる。


「確かに、あの子達にからかわれることはあるわ。……でも、それはあの子達が笑顔を忘れているからなの。だから、私は行かないといけないの! 涼夜君は、ずっと私の笑顔を見ていたいって言ってくれたけれど、そのために今行かないといけないの! だって、あの子達が笑ってくれないと、私も笑顔になれないもの! 笑っていれば何だって大丈夫よ! だって──」


 彼女の意志を示しているかのように、感情円はその輪郭をはっきりとさせている。

 人を笑顔にするためなら、彼女は汚れ役を引き受けることを厭わない。それが偽善だと罵る人もいるだろう。だけど、偽善というのは打算があるからこその偽善だ。彼女を助けに行くことで、東堂にメリットはない。もしかしたら、彼女達の嫌がらせは止むかもしれないが、死ぬ可能性を考えると全く釣り合わない。


「だって、世界は希望に満ち溢れているのよ!」


 人助けは、東堂香織の本質だ。

 説得しようとすることが間違っていた。

 まるで息をするように自然に、彼女は人助けしようとする。

 そうだ。彼女は──



 ──打算なんて全くない、生まれついてのヒーローなのだから。